春休みが明け高校2年の新学期が始まっても結局電車に乗ることができずとうとう登校できなくなってしまった。高校辞めてからの約7年間は結局ずっと社会生活に戻ることはできず決まった予定といえば月に2回くらいのペースで通う精神科のみ。
3〜4回に一回は母親がついてきていたような。
対人恐怖症、厄介なそれには15歳から悩まされていたのでそこからカウントするとアルバイトとしてある程度普通に出勤できるようになる25歳までの実に10年間は何もできずに自分の中の恐怖心や自意識とひたすら格闘していた。
勉強も部活も青春もバイトも受験も就活もなかった自分にとって、半年間のセブ島留学のその生活はまるで失った10年の青春を濃縮してその半年間の一瞬に詰め込んだかのような日々だった。
自分にとってはあまりにも衝撃的なセブ島留学からはもう6年以上が経っていて、直後の衝撃は徐々に薄まったいき会社員として日々一般的な社会生活をこなしたり突然海外生活に挑戦してみたり何かを勉強してみたりと当時の感覚はもう本当に時々しか思い出さなくなった。
それでもこうしてその物語を何年かかったとしても最後まで書き切ることを決めた当時の自分を尊重して忘れた頃にブログを更新する。その度に当時の感覚を掘り起こして探るとその日々が自分にとっていかに大きな影響を及ぼしたかが鮮明に蘇ってくる。
半年間の留学の最後の5週間で出会った何人か。
その後の自分にも大きな影響を及ぼすほどの友人二人目として大阪出身のキム・セファンという人物に出会った。
間違えなく出会った。
当時19歳、ついこの間まで高校生だった彼からは若さが故のジェネレーションギャップは微塵も感じずむしろ高2から綺麗に経験値が止まっていた自分からしたら社会復帰して間もない自分の知らない経験をたくさん知っていた。
海外への渡航経験や勉学、読書量や彼が自身の父親から影響を受けたものもあってか、まるで年下と話しているような感覚ではなかった。
英語留学の一つの選択肢としてその勢力を増し続けてきたフィリピンの語学留学。講師がネイティブではない、ということを除けば初学者の言語習得におけるデメリットは特に見当たらない格安の留学で、ワーホリ前の下準備としてもかなり有効的な選択であると思う。
自分がセブ島で選んだ学校は寮も教室もカフェも、食堂もバスケコートもプールも事務所も全て敷地内にあって当時300人超、人気すぎて入学待ちが出るほどの人気校だった。セブ島語学留学の多くは韓国企業が資本で、これはのちに生活したオーストラリアでも感じたことだけれど海の外で大きくビジネスを展開するアジア系の中小は韓国や中国が圧倒的に多いように思う。
アジア中から、時にはロシア、中東などからも英語を学びにくるわけだけれども校内にいる生徒らは当たり前に金払って学びにきている。
だた通常の生徒と違って彼が行なっていた学生マネージャーってやつは学校のスタッフ側なわけで校内での事務仕事が伴う。システム的にはオフィスでの仕事を半日、午前か午後のどちらかは他の生徒に混じってクラスに出席するというシステムで、仕事をする代わりに学費や寮費がかからずしかも少しの生活費をもらいながら海外での職務経験もできる、という経済的にも経験的にもかなり効率的な留学方法であった。
誰もが応募してなれるものではない、タイミングとか、そもそもその情報を知っていないと学生マネージャーとしてなんて留学できないものだけれど、彼はそんな半分オフィス半分授業の学生マネージャーとしてそこにいた。
その話はとても興味深い、一番最初にカフェで話しかけた時の会話でサラッとそのことについて話してくれたのを覚えている。
なんか、あんま群れないでいつも本持ち歩いてる、高校生にみえる大学生みたいなイメージだったけどそんな彼とはユンと一緒に自分の部屋に招いてギター弾いてもらった夜からとてつもないスピードで仲良くなっていった。
なんか最後の方は撮影しながらみんなで大合唱、あんま面白いことしてないはずなのにみんな爆笑してたのをよく覚えている。
数週間毎日一緒にいたユンともう一人の仲間が加わっていよいよ勢いづいてきたのも束の間、留学最後の1ヶ月で人生で初めての彼女ができるまでのカウントダウンが始まった。
これは本人がどう解釈するかにかかっていることだけれど俺はその流れはまさに事前に設定されていたかのように運命的だったと思っている。
思ってる、いやもう運命だった。
ゆんに会ってセファンにもあった、その後自分一人では繋がりようのない人たちと、とてつもなく短い期間にとてつもないスピードで繋がって、そしてその後とてもなく速く苦い恋の思い出となった人生初の恋愛が幕を閉じたのである。
当時26歳の渡邊なのであった。










