・・・終戦後まもなく、近代俳句の目的と機能といった問題が議論されるようになった。『世界』の昭和二十一年十一月号に、京都帝国大学出身の桑原武夫が「第二芸術論」という題で近代俳句を論じた。その前の年に俳句への関心が異常なほど高まり、再刊あるいは新たに創刊された俳句雑誌の数が少なくとも二十五にのぼったことが、この論文を書く直接のきっかけだったかもしれない。桑原はI・A・リチャーズの手法を適用し、十五の俳句を用意して、作者の名をふせたまま何人かの知識人にそれらを評価するように頼んだ。十五句のうちの十句は中村草田男、飯田蛇笏、高浜虚子などのそうそうたる俳人の作品で、五句はまったく無名の素人の句だった。結果は混沌としたもので、桑原は、俳句の客観的な評価の基準は存在しないという確信を深めた。現代俳人の句はあまりに難解なため、優れた俳人の作品だと前もって解っていなかったら誰もそれを理解しようともしないだろう、と桑原は訴えた。ボードレールやヴェルレーヌの詩を現代的なフランス語に「翻訳」する必要はない。しかし現代俳句の多くは、文学的感性の高い読者でも翻訳あるいは注釈なしで意味を理解するのは難しい。秋櫻子をはじめとする何人かの俳人は、俳句は俳句を作った経験のある者しか解らないと言っている。もし本当ならこれは俳句にとって致命的だ。小説、映画、あるいは彫刻についてこんなことを言う者がいるだろうか。俳人の価値は一句だけでは解らない、したがって、ずぶの素人の作品が大家の作品より優れている場合もありうると主張する者もいる。しかし小説家の場合、大家の短編がまったくの素人の作品より劣っていることなどありうるだろうか。

 桑原はさらに、俳壇に見られる流派へのこだわり、そして深刻な題材への根本的な無関心を冷笑した。同じ昭和二十一年、これより少し前に桑原は次のように書いている。「俳諧精神といつたものが明治以後の小説家に残っていて、それが近代小説の発達をさまたげる要因の一つになつているところから、俳諧などというものを一応忘れた方が、これからの文学のためにもよく、また国民生活のためにもよかろう」。俳句に新しい生命をあたえる試みがなされているのは認めるが、俳句が複雑な近代生活における表現の手段にはならないだろうというのが桑原の結論だった。

 怒った俳人たちはたいへんな勢いで反駁した。言うまでもなく、「大家」たちは激怒し、桑原の論理の欠陥をいくつも指摘した。しかし若い俳人たちには、俳句をやめようと考えるほどのショックを受けた者もおり、この論文が日本の敗戦後初めて、俳句についての真剣な議論を巻き起こしたのはまちがいない。桑原の論には保守派の俳人だけでなく、山口誓子や中村草田男など、比較的自由な立場の俳人も反撃した。どの立場から出された反論も、最終的には桑原に俳句を評価する資格が無い点を挙げ、俳句には素人の文学愛好家には解らない独特のきまりがあるという結論に到達した。かれらはまた自分たちが俳句にできる限り近代思想を取り入れようとしていると述べ、桑原がこれに気づかないのは俳句の特徴である省略的な表現を理解しないからだと主張している。しかし加藤楸邨の書いたように、かれらは「俳句没落の不安を意識せずには、俳句を作りつづけていくことは出来なくなった」のである。・・・

 

        (ドナルド・キーン著 『日本文学史 近代・現代篇七』より)