司馬 私の結論から言いますと、日本人というものはやっぱり神道ですね。ひじょうに古い形の神道、神道ということばもなかったころの神道というものが、いまだにわれわれのなかにあるのではないでしょうか。神道を思想化したり、いろいろ体系化した人があって、たとえば平田篤胤とか、明治以降の国家神道とかあるけれども、そういうのはむしろ神道の邪道であった。もともと神道というものは、要するにお座敷ならお座敷を清らかにしておくというだけです。その神さまのいる場所に玉砂利を敷いて清めておく。清めるというのは、衛生的にしておくのかなにかよくわからないですけれど、神道でいう清めておくということだけがあって、その上に仏教や儒教が乗っかっても平気というところがあるのです。・・・

 

     (『日本人と日本文化』対談 司馬遼太郎 ドナルド・キーン 中公文庫)

 

※ 「神道」は難解な教義も厳格な修行も必要としない。人格の完成などもいらない。儒教も仏教も、人が勝手に拵えた思想に過ぎない。殊に諸思想の根本的基盤というほどでも無い。たとえば、年中樹木に蔽われた小高い山に、或る種の神秘的な何かを与えられて、ふとその閑寂とした山中の頂にごくごく小さな社を造って礼拝する、というだけで他は何も必須としない、というのが私なりの固よりのイメージです。