司馬 いまのことですが、原型的に日本人が「たおやめぶり」だと言っても、これはけっして日本人として卑下するとか、それが困ったことだと言おうとしているのではないのです。節操のある人、そしてほんとうに勇気のある人というのは、案外「たおやめぶり」の人から出ることが多くて、つまり自分の意見なり、自分の立場なり、あるいは正しいと思ったことを守りぬくという点で、「ますらおぶり」の人はくるっとどこかへ転換してしまっているのに、「たおやめぶり」の人は頑固である、ということがある。・・・

 

   (『日本人と日本文化』 対談司馬遼太郎 ドナルド・キーン中公文庫より抜)

 

※ 万葉的な人を「ますらおぶり」、古今的な人を「たおやめぶり」と明治維新以降、単純化してよく片付けられていますね。まあ、実際はもっと複雑と云えるのでしょうけども。

 近代化においては、「ますらおぶり」が大へん尊ばれて、このことが陰に陽に国民一般の精神に求められたのです。「ますらおぶり」は男性的で豪快や写実主義、一方、「たおやめぶり」は女性的で繊細、主観的傾きが濃い。

 「ますらおぶり」は、順調な客観情勢がいったん崩壊過程に転ずると、みるも無残に弱弱しくなる、時流に乗ずることには実に巧みであるが、自らの考えというものに乏しい、というのが私の観察であります。