次のような結論に到達することは容易に許容出来得るだろうと思われます。即ち管見の限りであることも認めるから、もはや言い古り尽された陳腐たる見方なのかも知れないけれども、明治中葉に突然登場した正岡子規は「近代化」という時代の要請する情操には打って付けの天明期与謝蕪村という人をふと見付けて偏に称揚して亀鑑としました。

 今日において最傑作と人口に膾炙されている「菜の花や月は東に日は西に」などという蕪村の一句は、平安古今集以来、先ず発見できるところのない詩想にあった。ひとつ例示すると、元禄芭蕉流の「わび、さび」という精神は蕪村の詩の背後には全然看取できない。自身もまた「わび、さび」には好尚を置かぬと明確に言うております。蕉翁の如き「衰へや歯に喰いあてる海苔の砂」などとは終に仕立てない。

 古い情操とは異なった持ち主の蕪村その人は、子規に発掘されるまで、先ず異質の俳人と見做されていた事実があります。これに対して、子規は青春の、清新な句作を蕪村という手本に尋ねたのです。

 子規の没後、居士門下の最もなる実力者である高浜虚子は、子規が蕪村的なものを大分芭蕉的なものに戻そうと試行した。しかしそれは全く不足に終わって、また虚子自身も芭蕉に全幅の敬愛に満ちていたというほどでは無かった。つまり蕪村ー子規に連なる系譜を打破しようなどという意図は露も無く、子規の考えに賛同をしこれを存分に踏まえつつも、再び芭蕉の精神を織込もうと試みた。

 虚子について残っている小論を探れば、蕪村の句風に対しては痛烈な批判の筆も染めているもみれます。子規は近代俳句の鼻祖として、他に批判などは皆無にあったが、虚子には毀誉褒貶も生前烈しかったようであります。