雲 雀(ひばり)よ り 上 に や す ら ふ 峠 か な      芭 蕉

 

 芭蕉四十五歳の作で、大和の多武峠から竜門をすぎて吉野にはいるとき、臍峠で一休みしつつ詠んだ句であります。

 季語は「雲雀」で、歳時記では、春の部の「動物」の項に入れてあります。雲雀は一年中見かけるものでありますが、春には一番活動して、空高く舞いあがり、美しい囀りをしますので、この項目に入れてあるわけです。

 句の意味は、苦労して峠路を登り、頂上に出て一休みしたとき、前にひらけた谷の畑から飛び立った雲雀が、かなり高く揚って囀っているが、自分はその雲雀よりも一層高い場所に休んでいる(やすらふ)ーというわけであります。

 ところで、もしここで「雲雀」という季語を使わずに、何か種類のわからぬ鳥が飛んでいて、その鳥よりも高い峠で休んでいると詠んであったとしたら、どういうことになりましょうか。それならば人と鳥と谷間との高さのちがいだけはわかるでしょうが、そのほかの余情というものは別に感じられないわけであります。ところが「鳥」の代わりに「雲雀」という季語が置かれますと、その囀る声ばかりか、つまり、谷間の畑には麦が青々と伸び、あるところには菜の花が咲き、農家の点々とする村落にかけて、霞の棚曳いているところまで想像されて、句が実に美しく、余情の深いものとなり、自分もまた芭蕉とともに吉野超の旅にあるかのような気持ちになるのです。季語というものはこういう働きをするもので、ただの十七音では、僅かのことしか言えないのに、季語のあるために、読む者はいろいろ想像を加えることが出来てたのしいのであります。・・・

 

            (水原秋櫻子編 『俳句鑑賞辞典』東京堂出版より抜粋)

 

※ 「雲雀」は年中居る鳥でありますが、春季に最も活発でありまして、この時候、人間の目に耳に大変印象深い動物でありますから、わざわざ春の季ことばに選定されたのです。こういう考を知りさえすれば、先ずは万人の共感を得ることが可能でしょう。

 「何とまあ、随分と高い所にまで登ったものだ、雲雀が自分の目線より遥かに下のほうで囀りながら飛んでおるわい。」という詠嘆の上に、「雲雀」は春を表す語でありますから、そう読むのと同時に、作者の何となく暢気で春長閑な旅情を足せばよいのです。

 別に季ことばが無くとも、作者の本情がよく分かる場合もありますから、俳句にそこまで季語を絶対視する必要もなかろうとも私は思うております。ただ便利で分かりよく、多くの共感を得られやすい、たとえ時代は変ろうとも動かぬ普遍性がある、などの長所を上手く活用してくれ、大きな短所もあるだろうがーというのが古人の願いだったのではないでしょうか。