・・・一七九〇年代(寛政期)を代表するのは鈴木道彦(一七五七~一八一九年)であろう。医を習うために仙台から東京へ出た道彦は、加舎白雄の門に入ったが、一七九一年に師が没すると同時に巧妙な政治力を発揮して一門を支配下に収め、全国各地の風土と交信して江戸俳壇における地歩を不動のものとした。だれかれなしにけんかを売った道彦は、一七九八年の著の中では中興期の俳家を罵倒し、自らの師の白雄についてさえ「国を威すに兵革をそなへてかつて人を和するの玄徳なし」と書いたほどだった。

 それほどの狷介にもかかわらず、道彦は芭蕉を絶対視し、芭蕉の風雅の旅装をなぞり、ついには自己を蕉門の十哲に擬するほどの傾倒を見せた。自らの手で芭蕉の像を彫り、桃青仏とあがめるようなこともした。句風にも正風のさびを承けようという努力の跡がありありと認められる。

 

  寝 起 か ら 団 扇 と り け り 老 に け り

 

 夏の午後、昼寝から醒めた老人は、手をのばして団扇をとる。そのときに襲ったけだるさの中に彼は己の年齢を知る。「けり」の繰り返しが、だるい気持ちを効果的に強めている。

 ただ、道彦の句は、ときには芭蕉の句と同じ小道具を総動員しながらも、全体的な効果において失敗に終わっている場合がある。

 

  さ び し さ や 火 を 焚 く 家 の か き つ ば た

 

 やという切字も、かきつばたという季感も、そこにはそろっている。句そのものも、芭蕉と同じ閑寂の境地を狙っている。だが、それがほんとうに寂しくあるためには、かきつばたは、あまり適切な選択とは言えないのである。

 後年、道彦は蕉風の歪曲者としてきびしく指弾されることになった。今日でも、俳諧の大衆化をもって自己の勢力拡張をはかった人物として低い評価しか与えられていない。しかし、そうした否定的な位置づけが正しいかどうかは大いに疑問である。現に、道彦のことを、中興俳家よりも芭蕉に対して忠実だったと判定している批評家もいる。彼を真の意味の俳人と見るか、大衆運動家と断じ去るかはともかく、彼自身が芭蕉の正統継承者を自任していたことは否定できない事実である。道彦の句は、その平明さのゆえに批判される。だが、俳諧大衆化運動の旗手でありながらも、芭蕉の理想への帰一を願った彼の態度は、今日一般に彼に対して与えられている以上の評価で報われてもいいのではないだろうか。・・・

 

           (ドナルド・キーン著 『日本文学史 近世篇二』中公文庫)

 

※ 「芭蕉に帰れ」と唱えた与謝蕪村ら中興俳家たちは、そうはいいながら、蕉風にはちっとも似ていないのは事実である。詩人としての素質が終に芭蕉に及ばなかったろうが、蕉風を継承しようとした道彦もまた、梅室・蒼虬・鳳朗ら天保三大家と同様に評価してもよいでしょう。

 

   わ れ も ま た 腰 の 痛 み や 春 の 雪           凡 人