・・・十七世紀に松尾芭蕉が出ると発句(連俳における最初の句)の独立性の強い芸術性の高い句風(蕉風)が確立され、後世の俳句に影響を与えた。明治時代に入り、正岡子規が幕末から明治初期のありふれた作風を「月並俳句」(月並俳諧)と呼んで批判し、一八九三年〈明治二十六年〉に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、『発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ俳諧から発句を独立させた。これ以降「俳句」の語が一般的に用いられ、以後近現代の俳句につながるようになった。・・・

 

                      (『ウィキペディア』より抜粋)

 

▼ 発句が脇句以下を必要とせず、一句単独で詠まれることは、既に芭蕉の登場以前より存したことである。殊に芭蕉よりはじまったものでもない。

▼ 蕉風は発句の独立性強く芸術性高いというけれども、やはり付句されて歌仙を巻くこともありうることも見込まれて詠まれていたのである。ただ発句のみでも十分味わうこともできるため、好んで発句だけを幾つも詠んでいたのみである。

▼ 芭蕉その人は単独で詠まれる発句のみならず、座の文芸たる連俳にも力を入れていた。また発句においても他者を寄せ付けないような言い尽くされた完結性を嫌がったものである。

▼ 芭蕉より始まった発句の独立性・芸術性は、明治期に正岡子規が現れて「俳句」と称されるようになり、これらがさらに徹底され決定的なものとなった、さも芭蕉以来の伝統を受けているような印象であるが、いっそう近現代俳句というものは、芭蕉の文学とは全く無関係のものとしてはどうだろうか。真率に云えばこう「こじつけ」られているのであろう。