ここに朝倉義景の塚あり。居館一乗谷より、やや隔てる境にて、いかなるよしにや、と覚え侍れば、天正元年、城下を焼き払はれて、織田信長が兵に追はれけるに、終にこの大野郡六坊賢松寺に生害せられけるを知り侍りぬ。越前朝倉氏五代栄華は滅亡しけりて、義経が衣川館、ここにも侍りぬ。

 義景公、和歌茶道など好まれる風雅の人に、はた城下は洛に似せて、将軍義昭も逗留し給ひけりと伝ふ。さてこそ暗愚の将には侍らね。ときは戦国の代々、かかる身をこそいと哀れなりけれ。

 あたりは雨の音ばかり、閑寂のうちに杉の木ふりて、右は、義臣高橋景倍・鳥居景近、後ろに子息愛王丸と正室小少将、母光徳院の塚ら、古苔を残してかひがひしく見ゆる。

 時移り、世を変じて、塚近きには「義景保育園」・「義景集会所」といふ名も見えて、今人の愛隣の情にも涙をそそぎぬ。しばらくは義景庵といふ四ツ柱に、つゆやまぬ北国の雨を凌ぐ。

 

  草  臥  れ  に  な  ほ  宿  ら  す  る  秋  の  雨    

       

                                          (平成卅年拙書「冬の日」より)