2001年宇宙の旅 [DVD]/キア・デュリア,ゲイリー・ロックウッド,ウィリアム・シルヴェスター
¥1,543
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知人から「訳わからない映画だけど」と薦められ、観ることになりました。

実は20年ほど前、大学生の頃に一度挑戦したことはあったのですが、その時はまさに「訳わからない映画」でしかなく、開始早々に寝てしまって、何度挑戦しても寝てしまうから観るのを諦めた思い出があります。

そして今回、20年振りに観てみたら、確かに訳はわからないのですが、でも、凄い映画だ!という感想ももちました。

まず何より、1968年に製作されたのに、その色あせることのない映像の美しさに唸りました。

当時のことだからCGなどもなかっただろうに、宇宙空間の映像など、本当にきれい、というか美しく、あー、これは名作と言われるわけだなぁと思いました。

そして、観た方ならわかると思いますが、映画開始冒頭に、画面が真っ暗のなか、BGMだけが延々と流れたり、途中に「休憩」の表示が出て、観ている人が休憩をとれるようになっていたり、ラスト近くの場面で同じような映像が延々と流れたり、本編終了後、エンドロールが流れ終わった後、そのままの真っ暗な画面のなかBGMが静かにその終了を迎えるまで、延々と流れていたり・・・。

ともすると、冗長な印象を与えられるようにも思うのですが、今回観た時には、かえってそれが、宇宙の広大さや無限に広がる空間感(変な日本語ですが)を感じました。

映画の中の時間も、400万年前の人がまだ猿だった時代から、人類が宇宙へと広がっていく時代までだったり、空間的にも地球を飛び出して月からそして木星へと、広い広い宇宙空間へと展開していきます。

そして最後は、訳の分からない惑星大の赤ん坊の出現。

監督が何を伝えたかったのかはよくわからないし、それは観る人それぞれが感じれば良いとは思いますが、僕はとにかく題名の「宇宙の旅」という通り、ヒトというちっぽけな意識体が宇宙を漂うような、伸びやかでくつろげる映画だなぁと思いました。






『海辺のカフカ』を読んでいて、分かったこと、というか気づいたことがあります。

それは、物語を読むということは、その物語の世界に入って、その世界の価値基準、感受性、物事の成り立ち方などを、すでに自分に刷り込まれているものとしながら、その物語のなかで起こる事件や出来事を体験することだ、ということです。

具体的に言います。

『海辺のカフカ』では、猫と会話できる人物が登場します。

今僕が生きているこの現実世界で、僕の認識においては、ヒトは猫と会話することはできません(と、僕としては理解しているということです)。

しかし、海辺のカフカという物語を読み進めていくうちに、その世界では、それが可能であり、起こり得ることである(出来る人物は限定されていますが)という現実のルールが染み込んできます。

それはもちろん「この世界では、ある特定の人物はネコと会話することが可能なのである」と記述してあるわけではありません。

人と猫が会話する場面が登場し、本来そのようなあり得ない(と僕は思っている)ことが、読者である僕にじんわりと自然に受け止められ、そのようなことがあっても良いな、これはこれでこの物語のなかでは成立するのだろうな、ということが、意識せずに了解させられるように書かれているのです。

そうすると、その物語を読んでいるとき(その物語の世界に入っているとき)には、その物語世界における基本的な認知の仕組みが自分の知らない間にセットされ、そのような心の在りようで、物語の事件や出来事を体験することになる、と思うのです。

そして猫のことばがわかる人がいる、ということや、それ以外の記述される様々な場面で構成されるその物語の世界が、僕にとってはとても穏やかで、まるでぬくぬくとした春の日だまりでくつろぐような状態であると感じ、その物語の世界を平和で安全なものであると、わざわざ意識せずともそのように認識している自分をふと感じたのです。

そして、そのような状態で読み進めていたときに、むごたらしい殺人場面が展開されます。

その場面を読んでいた時に、僕は、自分でも意外なほど衝撃を受けました。

たとえば仮に、そのような情景、情報をただポンと目の前に提示されたとしたら、それなりのネガティブな感情は湧くとは思いますが、それでも、あくまでも現実には起こっていない事、単なる絵空事として受け止められているだろうと思います。

しかし、『海辺のカフカ』という物語のなかでその場面に出会ったときの衝撃は、本当にものすごいものでした。

そしてその衝撃の度合いというものは、
そのときの基本的な心の在りよう、その物語世界への前提としての認識があったからこそのものだ、と思ったのです。

そのように感じたのは、物語を素直に受け取る僕のバカ正直さ、そしてもちろん作者の力量が関係しているのだと思いますが、それにしても衝撃的な場面でした。

それは、村上春樹さんだけに限らず、優れた物語作家であれば起こし得ることなのかと思いますが・・・、でもやはりそれは限られた方だけが持ち得る、特異な才能なのだろうなと思います。

いずれにしても、そのように物語を楽しむことができるということは、僕にとって喜びの一つだし、そのような時間を享受させてくれる作者には、ありがたいなぁという気もちです。

これから下巻を読むのが楽しみです。


対人援助職という仕事をしていて、我ながら自分に素質があるな、と思うことに、「相手に対して素直に驚ける」というものがあります。

自分のこれまでを振り返ると、割と最近まで友が皆我より偉く見えてしまう感じでした。

ようやく最近になって、自分のことを一人の大人として認められるようになってきて、人と自分を比べても、人は人、自分は自分と、平気でいられるようになってきました。

自分が一人劣っていると思っていた期間が長いからなのか、人の話を聞いていると、素直に「凄い」「やるなぁ」と思えることが多々あります。

人は誰かに驚かれる位に認めてもらうと、なぜか自信がもてたり、元気が出たりします。

子育てでも、もちろんわが子に期待することも良いことですが、一方で、「え、うちの子って、こんなに出来るの」とか「いつの間にこんなに成長していたんだ」と、驚けると、子どもはやる気が出てくると思います。

そのためには、わが子をあえて低く見積もって、「どうせうちの子にはこのレベルは無理だろう」と思ってみるというのも良いかと思います。

ちなみに、この作戦は、普段子どもに接していないお父さんこそが使いやすいものなのでは、と思います。

男子三日会わざれば、括目して見よ、ということばもあるように、時間を空けてこそ、素直に驚きやすいと思います。