『海辺のカフカ』を読んでいて、分かったこと、というか気づいたことがあります。
それは、物語を読むということは、その物語の世界に入って、その世界の価値基準、感受性、物事の成り立ち方などを、すでに自分に刷り込まれているものとしながら、その物語のなかで起こる事件や出来事を体験することだ、ということです。
具体的に言います。
『海辺のカフカ』では、猫と会話できる人物が登場します。
今僕が生きているこの現実世界で、僕の認識においては、ヒトは猫と会話することはできません(と、僕としては理解しているということです)。
しかし、海辺のカフカという物語を読み進めていくうちに、その世界では、それが可能であり、起こり得ることである(出来る人物は限定されていますが)という現実のルールが染み込んできます。
それはもちろん「この世界では、ある特定の人物はネコと会話することが可能なのである」と記述してあるわけではありません。
人と猫が会話する場面が登場し、本来そのようなあり得ない(と僕は思っている)ことが、読者である僕にじんわりと自然に受け止められ、そのようなことがあっても良いな、これはこれでこの物語のなかでは成立するのだろうな、ということが、意識せずに了解させられるように書かれているのです。
そうすると、その物語を読んでいるとき(その物語の世界に入っているとき)には、その物語世界における基本的な認知の仕組みが自分の知らない間にセットされ、そのような心の在りようで、物語の事件や出来事を体験することになる、と思うのです。
そして猫のことばがわかる人がいる、ということや、それ以外の記述される様々な場面で構成されるその物語の世界が、僕にとってはとても穏やかで、まるでぬくぬくとした春の日だまりでくつろぐような状態であると感じ、その物語の世界を平和で安全なものであると、わざわざ意識せずともそのように認識している自分をふと感じたのです。
そして、そのような状態で読み進めていたときに、むごたらしい殺人場面が展開されます。
その場面を読んでいた時に、僕は、自分でも意外なほど衝撃を受けました。
たとえば仮に、そのような情景、情報をただポンと目の前に提示されたとしたら、それなりのネガティブな感情は湧くとは思いますが、それでも、あくまでも現実には起こっていない事、単なる絵空事として受け止められているだろうと思います。
しかし、『海辺のカフカ』という物語のなかでその場面に出会ったときの衝撃は、本当にものすごいものでした。
そしてその衝撃の度合いというものは、そのときの基本的な心の在りよう、その物語世界への前提としての認識があったからこそのものだ、と思ったのです。
そのように感じたのは、物語を素直に受け取る僕のバカ正直さ、そしてもちろん作者の力量が関係しているのだと思いますが、それにしても衝撃的な場面でした。
それは、村上春樹さんだけに限らず、優れた物語作家であれば起こし得ることなのかと思いますが・・・、でもやはりそれは限られた方だけが持ち得る、特異な才能なのだろうなと思います。
いずれにしても、そのように物語を楽しむことができるということは、僕にとって喜びの一つだし、そのような時間を享受させてくれる作者には、ありがたいなぁという気もちです。
これから下巻を読むのが楽しみです。
それは、物語を読むということは、その物語の世界に入って、その世界の価値基準、感受性、物事の成り立ち方などを、すでに自分に刷り込まれているものとしながら、その物語のなかで起こる事件や出来事を体験することだ、ということです。
具体的に言います。
『海辺のカフカ』では、猫と会話できる人物が登場します。
今僕が生きているこの現実世界で、僕の認識においては、ヒトは猫と会話することはできません(と、僕としては理解しているということです)。
しかし、海辺のカフカという物語を読み進めていくうちに、その世界では、それが可能であり、起こり得ることである(出来る人物は限定されていますが)という現実のルールが染み込んできます。
それはもちろん「この世界では、ある特定の人物はネコと会話することが可能なのである」と記述してあるわけではありません。
人と猫が会話する場面が登場し、本来そのようなあり得ない(と僕は思っている)ことが、読者である僕にじんわりと自然に受け止められ、そのようなことがあっても良いな、これはこれでこの物語のなかでは成立するのだろうな、ということが、意識せずに了解させられるように書かれているのです。
そうすると、その物語を読んでいるとき(その物語の世界に入っているとき)には、その物語世界における基本的な認知の仕組みが自分の知らない間にセットされ、そのような心の在りようで、物語の事件や出来事を体験することになる、と思うのです。
そして猫のことばがわかる人がいる、ということや、それ以外の記述される様々な場面で構成されるその物語の世界が、僕にとってはとても穏やかで、まるでぬくぬくとした春の日だまりでくつろぐような状態であると感じ、その物語の世界を平和で安全なものであると、わざわざ意識せずともそのように認識している自分をふと感じたのです。
そして、そのような状態で読み進めていたときに、むごたらしい殺人場面が展開されます。
その場面を読んでいた時に、僕は、自分でも意外なほど衝撃を受けました。
たとえば仮に、そのような情景、情報をただポンと目の前に提示されたとしたら、それなりのネガティブな感情は湧くとは思いますが、それでも、あくまでも現実には起こっていない事、単なる絵空事として受け止められているだろうと思います。
しかし、『海辺のカフカ』という物語のなかでその場面に出会ったときの衝撃は、本当にものすごいものでした。
そしてその衝撃の度合いというものは、そのときの基本的な心の在りよう、その物語世界への前提としての認識があったからこそのものだ、と思ったのです。
そのように感じたのは、物語を素直に受け取る僕のバカ正直さ、そしてもちろん作者の力量が関係しているのだと思いますが、それにしても衝撃的な場面でした。
それは、村上春樹さんだけに限らず、優れた物語作家であれば起こし得ることなのかと思いますが・・・、でもやはりそれは限られた方だけが持ち得る、特異な才能なのだろうなと思います。
いずれにしても、そのように物語を楽しむことができるということは、僕にとって喜びの一つだし、そのような時間を享受させてくれる作者には、ありがたいなぁという気もちです。
これから下巻を読むのが楽しみです。