グリークラブアルバムの研究 32-37 黒人霊歌のために 国内編(1) | とのとののブログ

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 次は黒人霊歌が日本で歌われるようになった過程について。黒人霊歌は合唱以外に,例えばマリア・アンダーソンのように独唱でも歌われたが,ここで考えるのは合唱,さらには男声合唱。黒人霊歌の詳細は前掲書を参照ください。

 

 米国の黒人奴隷たちが,白人たちから隠れて歌っていることは古くから知られ,Slave songsPlantation songsと呼ばれていた。まとまって採譜され紹介されたのは1876年出版のSlave Songs of the United States(合衆国の奴隷の歌)で,136曲が収録された(Google Booksで参照できる)。以後たくさんの歌集が出たが,歌は口伝だったのでタイトルや歌詞やメロディーにばらつきがある。

 

 黒人霊歌が世界的に知られたきっかけは,黒人大学フィスク大学の資金集めのため1870年頃に創設されたフィスク・ジュビリー・シンガーズFisk Jubilee Singersが,三度の世界巡業を行ったこと。1909年に「Swing Low, Sweet Chariot」を録音し*,黒人霊歌の最初期の録音として貴重。楽譜と録音へのリンクを示す。編曲はシンプルだが,ゆったりと哀愁帯びた歌唱は昨今のリズミカルな歌唱と比し味わい深い。

* https://en.wikipedia.org/wiki/Swing_Low,_Sweet_Chariot

 

 日本での初期の黒人霊歌(「東京コラリアーズの研究」から再掲)

 

 日本で最初に紹介された黒人霊歌の楽譜は,雑誌「音楽界」明治42(1909)9月号に載った「STEAL AWAY!」だと思う。「合衆国奴隷の歌」から30年ほどで紹介されているのは早い。編曲はジュビリー・シンガーズ版とは異なり,既に何種か編曲ががあった。

 なお,当時は海外の曲に全く違う日本語のタイトルと詞を与えることが普通だったので先行例があるかもしれない。例えば,大正4年の男声合唱曲「権兵衛と田吾作(権兵衛が種まきゃ)」は,原曲が黒人霊歌「WHO DID」であることは,既にブログで述べた。

 

 大正9年には黒人3人組の「ルイジアナ・トリオ」が来日,テノールの声は素晴らしいがバリトンはみすぼらしい声でベースもとぼけたような声だが「ひとたび無伴奏で合唱するや,三人の声は一体と成り,バランスも良く,詩曲は完全に合一し」と津川主一が述べている。津川は,この3人はフィスク大学の卒業生で,ヴィクトリア女王の御前で演奏したと紹介している。

 

 国内において,初めて黒人霊歌らしき合唱曲の演奏記録があるのは,大正12(1923)617日の慶應ワグネル第36回春季演奏会でchorusされた「vira」という曲。Ricker作曲のNegro Songとされている。

 この曲は黒人霊歌ではない可能性もある。Rickerとは,おそらくHerbert Ricker(1903-1967)と思われるが確証はない。彼は10代でその才能が認められたとあるので,作品的に可能性はあるが「vira」という曲があるのか不明。黒人霊歌の可能性もあるので,記載しておく。

 なお,細川周平さんの「近代日本の音楽百年 第4巻『ジャズの時代』」によると,「大正時代にニグロ・スピリチュアルのレコードが輸入され,教会周辺で一定の評価を受けていた」らしい。

 

 ついで雑誌「月刊楽譜」の昭和26月号には,ジョンソン編曲の「黒人民謡 彼方に行くは誰ぞ」が掲載された。楽譜は未見。原曲も不明。これも黒人霊歌ではないかもしれないが,「Negro Spiritual」という言い方は当時の米国でも一般的ではなかった。例えば1918年にSchirmer社から出版された「NEGRO FOLK-SONG」は直訳すると「黒人民謡」になるが,収録曲は「Go Down Moses」や「Couldn't Hear Nobody Pray」など全て「黒人霊歌」。

 このころ,同じ雑誌に青木正が「郷愁の唄」としてニグロ・スピリチュアルを紹介している。

 

 昭和10(1935)には,オリオンコールが「ニグロ民謡」として,「祈りの歌」「子守唄」の2曲を演奏している。原曲名は不明で,これも黒人霊歌ではないかもしれない。しかし,「ニグロ*」と書かれているので記載しておく。

 

 昭和15(1940)に西南学院グリークラブが歌った「死の精」は,原曲不明だけれど,「ニグロ霊歌」とされているので,黒人霊歌である。

* 一時期「ニグロは差別語だから,『ニグロ・スピリチュアル』と書くべきではない」という言説があったが,当の黒人たちが「ニグロと呼ばれることを誇りに思う」的な発言をしているから,不適切とは思えない。当時の資料のままに記載していく。

 

 関西学院グリークラブは戦前から黒人霊歌をレパートリーとし,昭和12年にブリューアー編曲の「ゴーダウン・モーゼス」を,昭和13年に「Steal away」を歌っている。これらは現在もよく歌われる黒人霊歌。

 英語の使用を禁止された戦争中はKeep in the middle of the roadを「桃太郎」と作歌して演奏した。面白かったのか,戦後の昭和22年にもJoshua fought the battle of Jerichoを「かがし(案山子)」とし歌った。

 

 西南学院グリークラブは日米開戦後の演奏会でNegro Spritualsを歌い,「黒人はアフリカの有色人種だから敵性がなくてよかろう」と当局の許可を得たエピソードを紹介している(昭和初期には,米国で白人が黒人を差別していることは知られていた)。おそらく日本語訳で歌ったのだろうが,戦争中の「苦しみの中にあるが故に希望のかなた,神の国を求めて歌われた,Negro Sptritualsが我々の心の歌となり,口からよく出たのも当然であったことかと思われます」の述懐が染みる*

* この文章のタイトルはLord, I want to be a christianであり,歌われた曲の一つだろうか。グリークラブアルバム1に三沢郷の編曲で収録されている。三沢は「サインはV」「デビルマン」などを作曲し,本名は手島洋一。西南学院グリークラブ出身でフォー・コインズとして独立するまで東京コラリアーズに所属した。

 

 戦後の状況と東京コラリアーズの黒人霊歌については,福永陽一郎が雑誌「合唱界」に分かりやすく述べている。一部省略しながら引用する。以下,再掲部分が多い。

 「戦争がすんで,アメリカの音楽が解禁になると,SPでマリアン・アンダソンのニグロ・スピリチュアルが発売され,”Go down Moses”の迫力に驚いたり,”Heav'n”のリズムや音響に参ったりしているうちに,すっかりニグロの魅力のとりこになってしまった」

そのあと関学の「桃太郎」「かかし」,松浦周吉が指揮する黒人霊歌の魅力を語り,

「アンダソンが日本に来た。勿論聞きに行った。その時より前に,東コラが誕生していて,第一回のプログラムからニグロが入っていた。ボクがあやつれる唯一の外国語が英語だったこと,ボクがクリスチャンだったことが,黒人霊歌を理解するのを容易にしたかも知れない」

「とにかく東コラを始めた当時,不自由な中で,男声合唱用のニグロの楽譜は集められるかぎり集めていた。そのコレクションは現在に至って,他のすべての種類の合唱曲全部を合わせたのと同じぐらいの分量になってしまっている」

そしてWings over Jordan*という黒人合唱団の生演奏を聴き,本物に感動すると同時に,日本人が演奏する黒人霊歌に絶望した。

* Wings over Jordan (Choir)1935年の創立,初期の活動が1940年代半ばまで続いた「アメリカで最初の常勤黒人プロ合唱団」で,1950年代以降も活動は続いている様子。ラジオ「Negro Hour」で活動を始め,第二次大戦中は米国・ヨーロッパ・カナダ・メキシコなどを巡回し慰問演奏を行った。「Negro Hour」を聴いている時にルーズベルト大統領から「真珠湾が攻撃された」と緊急アナウンスが放送された,と記している資料もある。1950年頃の演奏はCDiTunesで購入でき,何曲かはYouTubeでも聴くことができる。

 訪日した記録は今のところ見つからないが,福永は「訪日し」「生演奏に触れ」と記している。テレビ放送開始まもない昭和30年頃,日本テレビにGHQ協力の「ポップコンサート」という番組があり,米国陸軍や海軍の軍楽隊だけでなく,駐留軍慰問のため来日した歌手が出演した(ゴマポケット「昭和30年代のTVガイド」)。おそらく,コンサートではなく,この番組を通じて聴いたか,福永が放送に関与し生演奏に触れたのだろう。

 

「この絶望を救ってくれたのがデ・ポア合唱団だと云ったら逆説に聞こえるかも知れないが,それは本当にあった話だ。つまり,デ・ポアのニグロは,ずいぶん教養を通過したもので,つまらないぐらいだった。ハハア,黒人の合唱団でもこういうのをやるのか。これならまねができるのだが,彼ら黒人連中がスマシ顔でやっているところを見ると,これも『本物』のうちなのだろう。これなら,音楽的にも,発音的にも,技術で解決できる範囲内のものだ。そして,具体的に一つ一つの問題について,解答を見つけてきた。やっとこさ,ニグロらしく聞かせるアノ手コノ手を心得たと云えるかな。

 それにしても,東コラもボクも,ニグロ音楽の万能的な魅力におぶさって,ずいぶんその恩恵に浴して来た。みなさんにもおすすめするが,ニグロがやれるようになったら,合唱団も一流で,そして絶対に喜ばれること受け合い。というのは,我田引水の弁かも知れぬが」

 

 その他の記事も参考に,ここでの福永の絶望を読み解いてみる。

「黒人霊歌の魅力は,リズムと深い悲しみと歓びが中心でWings over Jordanの叫びに近い絶望的な唄い方が実体であるなら,日本人には近づくことができない。しかし,デ・ポア合唱団の黒人霊歌は『楽譜』として感じられる。精神的ではなく音楽的で,そこに日本人が真似できる音楽を発見した。ステージで演奏する曲として仕上げられており,普通の歌曲を研究するやり方で,東京コラリアーズは黒人霊歌を歌うことができる」ということだろう。

 天性のリズム感や歌い方で精神性を求められると,日本人にはどうしようもないけど,メロディーやリズムを拝借し編曲の力でコンサートや放送用に刈り込んだ形なら,練習によりなんとかなる。合唱団を鍛える技術要素もその中に詰まっているということだろう。

 

 雑誌「音楽の友」vol.14-no.5に掲載の対談「アマチュア合唱団はこうあって欲しい」で,デ・ポーア合唱団について磯部俶は「非常に期待を持っていたのだが,まあちょっとがっかりした」とし,秋山日出夫は「なにか僕たちでも真似ができるんじゃないかという感じがしましたね。まあそれ以降日本でも,大分デ・ポーアばりの,合唱が演奏されてたいますよ」と述べている。「デ・ポーアばり」とは「演奏の効果を巧みに掴んでいる」ということらしい。

 当時の合唱人は黒人霊歌と真摯に向き合っており,今の我々は黒人霊歌を歌う時にそこまで思いを馳せていないのではないか。極論を言うなら,Robert Shaw編曲の他の曲集を歌うのと同じスタンスで臨んでいる。しかし,日本人にはそれ以外の演奏の仕方がないとも言える。「合唱のためのコンポジション」で述べたスタンスの,裏返しとも言える。

 

 福永の思いは,「フィスク・ジュビリー・シンガーズ」「Wings over Jordan」「デ・ポア合唱団」が歌う「Swing Low, Sweet Chariot」を聴き比べると追体験できる。例えばYoutube等で聴くことができ,AmazoniTunesの視聴で十分違いが分かる。残念ながら,東京コラリアーズが演奏する同曲の録音は,おそらく存在しない。彼らの演奏はソノシートに何曲か録音されているが,黒人霊歌は北村協一指揮の「ジェリコの戦い」「深い川」の2曲のみ。

 もちろん,そのように感じたのは福永だけではなく,米国でも黒人霊歌の合唱編曲は様々な形が追求されたが,ここではそこに立ち入らない。

 

Fisk Jubilee Singers

https://www.youtube.com/watch?v=GUvBGZnL9rE

先に上げたのと違うバージョン

 

Wings over Jordan

https://www.youtube.com/watch?v=8vPdpIgOces

 

The de Paur Infantry Chorus

https://www.youtube.com/watch?v=5_0Pis7SCzg

 

 

 大学男声合唱団では,戦後すぐ関西学院グリークラブが「かかし」「桃太郎」を原曲に戻し(少なくともプログラム上のタイトルは)Deep Riverなど新しいレパートリーに取り組み始めた。遅くとも昭和25年には他の東西四大学メンバーも黒人霊歌を演奏している。戦前から黒人霊歌を演奏していた西南学院グリークラブも,昭和27年には「お得意の黒人霊歌」と言えるまでにレパートリーを増やし演奏レベルを上げた*

 すなわち,黒人霊歌は,複数の男声合唱団がほぼ同時に日本の男声合唱界にレパートリーとして導入した。その意味で東京コラリアーズの単独貢献ではないが,福永が集めた多数の合唱譜から選んだ曲には今でも歌われる曲が多く,レパートリー紹介の意義は大きかった。昭和29年に来日したデ・ポーア合唱団のレパートリーとは微妙に異なる点が興味深い。

* 昭和21年に同グリークラブの専任指揮者になった石丸寛を,福永は「黒人霊歌について日本で最も信頼できる人」と評している。

(続く)