初期のダークダックスについて -東京コラリアーズの研究 特別編- その3 | とのとののブログ

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②藤原歌劇団(福永陽一郎)とのかかわり

 「東京コラリアーズの研究 I章 誕生編」で述べたように,当時の藤原歌劇団は大作では合唱団にエキストラを入れることがあった。ダークダックスのメンバーと福永はそこで出会ったが,福永の「ひとすじの道」ではそれは昭和265月の「アイーダ」のこととされ,ゲタさんの「歌の旅路」では昭和275月の「タンホイザー」とされている。昭和大学のオペラデータベースを用いて整理する。

 慶應ワグネルにエキストラの声がかかったのは,昭和26531-66日の「藤原歌劇團第40回公演《アイーダ》」であろう。合唱指揮は藤井典明*で,「ひとすじの道」で「当時の合唱指揮者・藤井典明さんからの縁からだったと思う,慶應義塾大学のワグネル・ソサイエティ合唱団から男声部の十数人の応援が来たのであった」とある。

* 藤井典明については第I章で紹介した。慶應ワグネルとの縁については不明。

 

 以後年代の関係が少しややこしくなるので,未記述の内容を含め,関連年表として整理しておく。

 

 ゲタさんはタンホイザーヘのエキストラ参加を「まだパクの学年が入ってくる前の年」と紹介しており,パクさんは昭和27年に入団しているので,昭和26年に参加していることになる。

 さらに「日本の美しい歌」で,藤原義江の歌唱を初めて聴いたのは「『タンホイザー』のすぐあとに『アイーダ』を大阪で公演」した時だと記している。オペラデータベースによると,昭和27年に藤原歌劇団が「アイーダ」を公演しているのは,昭和2744-47日の大阪および京都公演のみ。昭和26年は1011-12日に名古屋で公演している。したがって,大阪で藤原のアイーダを聴いたのなら,タンホイザーのあとではなく,直前の4月の公演になる。昭和26年の公演に参加した縁で,タンホイザー公演前の関西公演にも参加したと思われる。

 

 タンホイザーの公演は昭和27527-30日,ドイツのバリトン歌手ゲルハルト・ヒュッシュ来日記念の特別公演。指揮は昭和16年から藤原歌劇団を指揮するマンフレット・グルリット。ヒュッシュはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハを演じたが,公演は日本語だった。合唱指揮は木下保で,福永は補助指揮の位置づけだったが,木下はタンホイザーを演じており,実際に合唱を仕切ったのは福永だったのだろう。実際,ゲタさんは「その時の合唱指揮者・福永陽一郎さん」と記している。

 合唱は藤原歌劇団と東京放送合唱団とされているが,「歌の旅路」によると芸大の学生,10人ほどの慶應ワグネルのメンバー,早稲田大学グリークラブからも参加していた。音楽の専門教育を受けた「プロ」と,趣味で合唱を楽しむ「アマ」を混成した合唱団。福永は前年のアイーダにつき「藤原歌劇団の合唱団だけではアイーダの演奏に質的にも量的にも充分ではなかった」と記している。「量的にも」は「エキストラを集める」が答なのは分かるが,「質的にも」はどういう意味だろうか。

 いろんな解釈ができるが,ゲタさんが「日本の美しい歌」に書き残してくれた福永のことばが説明がしている。

「芸大の学生たちは素晴らしい声を持っている。でもハーモニーの感覚は大学合唱団の連中の方が優れている。芸大連中をレンガとし,大学合唱団の連中はそれを繋ぐセメントにするのだ」

 音大の学生を集めれば声は素晴らしいが,コーラスとしての(アンサンブルの)質が良くない。アマチュア合唱団から集めるとハーモニーは良いが見えが物足りない。質のもんだいとは,このことを指す。

 

 福永が当初からこう考えていたのか,アイーダやタンホイザーの指揮をするうちに思ったのかは分からないが,おそらく後者。「声の力を「芸大の学生」に,ハーモニーやアンサンブルのすり合わせを「大学合唱団の連中」に担わせる」という,コーラスで役割を分担させるという斬新な考え方。「III章 データ編」でまとめたように,大学合唱団がボイストレーナーにより団として声楽トレーニングを行うようになったのは昭和29年頃からだから,アマチュアの声はソリスト教育をうけた学生とは比較にもならなかった。おそらく昭和26年のアイーダは,人数を集める意味で大学合唱団にも声がかかったのだろうが,その合唱を指導した福永は,少ない練習機会で声とハーモニーを両立させる可能性に気がついたのだろう。昭和27年のタンホイザーでは,その効果を狙い意図的に混成したと思われる。

 

 そしてゲタさんによれば,東京コラリアーズがプロの声楽家とアマチュアの男声合唱団出身者による構成としたことも,この考えに基づいている。「東京コラリアーズとはなにか」を考える,最重要証言。

「福永氏は,この,東京コラリアーズの育成に専念しました。大部分が,慶應のワグネル・ソサィエティーのメンバーと,芸大のメンバーが多かったようです。福永氏は,ソリストの要素のある声を持っていて,音楽的テクニックを揃えている芸大のメンバーと,声,テクニックは劣っていてもコーラスをよく知っている大学合唱団のメンバーのミックスを狙ったわけです」

 この考察は大変長くなりそうなのでここでは紹介に留め,詳しくは「IV章 考察」で考える。

 

「歌の旅路」の該当ページ。大賀典雄もメンバーだったのかどうか?

 

 かくしてダークダックスのメンバーは福永と知り合い,東京コラリアーズのメンバーとなった。「歌の旅路」には「東京コラリアーズの仲間たち」という節があり,仲間たちとしてあげられているのは,伴奏の小林道夫,バリトン歌手の立川清登,北村協一,若杉弘。いずれも資料で在籍が確認されている。

 微妙なのがバリトン歌手でのちにソニーの社長となった大賀典雄。ゲタさんは芸大の学生だった大賀の名前を「東京コラリアーズの仲間たち」にあげている。大賀はWikipediaによると昭和28年に芸大を卒業,昭和29年には専攻科も終了し,ベルリン国立芸術大学に入学した。タンホイザーでヒュッシュの歌を必ず舞台裏で涙を流し聴いていた話が紹介されており,ドイツではヒュッシュに師事したらしい。

 よく知られているように,在学中に東京通信工業(のちのソニー)の嘱託にもなっており,たいへん忙しかったはずで,東京コラリアーズで合唱する時間があったのかどうか。資料では確認できていない。

 

 入団した彼らダークダックスのメンバーは東京コラリアーズの演奏会で「東京コラリアーズ・クヮルテット」として四重唱を歌い,それは演奏会の名物になった。ダークダックスと名乗る前の話とされている。

 

 さて,ここまで簡単にまとめると,

1. まずマンガさん,ゲタさん,ゾーさんの3重唱団を組んだ

2. 1年かけてトップを選び,下級生のパクさんが参加した

3. 東京コラリアーズにも入団,「東京コラリアーズ・クヮルテット」として四重唱を歌った

となる。

 

 ややこししくなるので書かなかったが,福永による「東京コラリアーズ縁起」が,昭和3012月の大阪労音コンサート「東京コラリアーズとダークダックスによるポピュラーソングアルバム」に載っており,創成期のダークダックスについても記述がある。それはゲタさんの書いたことを少し詳しく説明しているが,書かれていなかったことや整合しないことも含まれる。以下,この縁起を参照しながらここまでの話を再検討していく。もちろん東京コラリアーズについてもたくさん書かれているが,ここでは言及しない。以前の記事を補足する形で,別にまとめる。

(続く)