美濃 舟木城 3(本巣市上保)筵田砦? | とんかつおやじのブログ

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みの山城倶楽部 
美濃の山城巡りを楽しんでいます

船来山縦走の仕上げは 郡府山を・・・

 

 

 

 

 

 

 

↓黄丸

 

↑↓二本が堀切かどうか?  ↑は堀切可能性ありだと思いますが・・・ ↓水路・・・???

 

 

↓青丸

↑現状は水路に木橋としか見えませんが・・・ 

 

 

↓これのほうが まだらしいかも~~

↑黒丸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東端の展望台からは 金華山が・・・

 

↓新撰美濃志より拝借(国立国会図書館デジタルコレクション)

↑「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されているデジタル化資料のうち、個々の画像の書誌情報の公開範囲の記載が「インターネット公開(保護期間満了)」となっている画像は、著作権保護期間が満了していますので、転載依頼フォームによるお申込みは不要です。

 

 

 

 

 

 

■本巣市船来山古墳群保存・活用検討委員会  第4章 当該地域の現状  1 歴史的環境 より

 

中世を通じて、莚田荘をはじめいくつかの荘園が営まれた。在京の寺社、貴族、武士や在地の地頭
による支配も見られ、優良な農地をめぐって流動的な所有により、支配権は複雑化した。
戦国時代には船来山付近一帯の地域は、美濃国守護の土岐氏やその家臣であった斎藤氏によって支
配されており、後には織田氏などが支配した。船来山には斎藤道三に追われた土岐次郎政頼が「莚田
の砦」を築いたとされ、土岐氏の根城とされている祐向山城の前線基地としての位置づけも指摘され
ている。
古田織部は本巣に生まれ、戦国武将として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えるとともに、千利
休の茶道を継承して茶人として活躍し、茶器の製作や、建築や作庭の分野でも後世に大きな影響を及
ぼした。船来山周辺は戦国時代の乱世のなかで文化的な交流も活発に行われたこともうかがわれる。 

 

 

(1)船来山および周辺の歴史概要  第4章 当該地域の現状 

【中世(平安~戦国時代)】
中世に入っても、この地域の「糸貫川」「席田」「舟木山」が歌枕として詠み込まれており、「舟木山」
を詠んだものとして、『後拾遺集』の右大弁通俊や『新勅撰集』の権中納言経忠、『藤川記』の一条兼
良の歌が知られている。
承久 3 年(1221)に起こった承久の変では、北条時氏が率いる幕府軍が「莚田」で上皇軍を追撃し
たことが、『北条九代記』、『吾妻鏡』に記されている。この時の戦場は、東山道が糸貫川にさしかか
ったあたりであると考えられている。
中世を通じて、莚田荘をはじめいくつかの荘園が営まれた。在京の寺社、貴族、武士や在地の地頭
による支配も見られ、優良な農地をめぐって流動的な所有により、支配権は複雑化した。
戦国時代には船来山付近一帯の地域は、美濃国守護の土岐氏やその家臣であった斎藤氏によって支
配されており、後には織田氏などが支配した。船来山には斎藤道三に追われた土岐次郎政頼が「莚田
の砦」を築いたとされ、土岐氏の根城とされている祐向山城の前線基地としての位置づけも指摘され
ている。
古田織部は本巣に生まれ、戦国武将として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えるとともに、千利
休の茶道を継承して茶人として活躍し、茶器の製作や、建築や作庭の分野でも後世に大きな影響を及
ぼした。船来山周辺は戦国時代の乱世のなかで文化的な交流も活発に行われたこともうかがわれる。

 

 

 

 

 

 

体調次第の山城めぐり・・・

 

城友様に迷惑はかけられないので

 

時間を自由に 

 

近場のボッチめぐりが今はよいのかもネ!

 

それに 城址遺構の確信持てないですから・・・

 

空振りも多々あります

 

ほぼ物好きな 自己満足な世界

 

 

 

 

 

 

 

↓1年前の今日書いた記事