土岐氏武将印 8 頼次公と元頼公 | とんかつおやじのブログ

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土岐 頼次(とき よりつぐ)は、安土桃山時代の武将、江戸時代初期の旗本。美濃国の守護大名土岐頼芸の次男。通称は二郎、小次郎、左馬助、左京亮。後に見松と号した。

 

家臣の斎藤利政(道三)の讒言によって、兄の頼栄(頼秀)が父・頼芸の勘気を受けて廃嫡されたため、嫡子となった。初名は頼師という。

父と共に初め川手城、次いで大桑城に移り、天文16年(1547年)に父が美濃国を追放された際に、まだ幼い頼次は京都に移住した。

道三と斎藤義龍の争いに際しては義龍側に属し、義龍より本領を安堵されている。

その後、大和国に赴いて多聞城の松永久秀を頼った。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉に馬廻として仕え、河内国古市郡内に500石を与えられた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後、徳川家康、秀忠に拝謁して本領を安堵された。

また、西軍の敗将として切腹した斎村政広から没収した獅子王の剣を、家康は土岐氏は源頼政の子孫であるという理由で頼次に与えた。

以後、旗本として仕えた。

慶長19年(1614年)11月10日、山城国伏見において死去、享年70。法号は南陽院殿見松宗之居士。(Wikipedia)

 

大桑城 1       

 

 

 

長山城 1 2  


土岐 元頼(とき もとより、生年不詳 - 明応5年6月20日(1496年7月30日))は、戦国時代の武将。美濃守護土岐成頼の四男。母は側室。通称は四郎。美濃長山城主。



宮本家古寺縁起には、明応(1492年 - 1501年)の頃、土岐美濃守政房の弟長山四郎は芥見村権現山の城主にして、大洞願成寺を修復せりとある。

父の成頼は、庶子である元頼を溺愛し、政房の廃嫡を考えるようになり、成頼によって元頼は守護代の斎藤利藤、小守護代の石丸利光らに擁立され、兄の政房も斎藤妙純の支持を受けたことにより両者は対立、明応3年(1494年)に家督争いが起こった(船田合戦)。

明応4年(1495年)6月、利光らと共に政房方と戦うが、敗れたため利光と共に近江へと逃れた。同年9月、父は隠居を余儀なくされ、家督と守護職を政房に譲る。しかし、その後も元頼は抵抗を続け、明応5年(1496年)5月に美濃に下国、隠居していた父の居城・城田寺城に籠城して再起を図るが、妙純の軍勢に包囲され、5月30日、利光は成頼らの助命を条件に切腹した。しかし、父は城田寺城から出たが元頼は許されず、止むなく自刃して果てた。

小里氏の祖である土岐頼連は元頼の子とされる。また、明智光秀は元頼と武儀郡の豪族の中洞源左衛門の娘との子であり、大永6年(1526年)8月15日に生まれたという伝承が、山県郡美山の白山神社に伝わっている。(Wikipedia)