大会前日、ビックハットのブースで申し込んでいた、大会、翌日の信濃毎日新聞が、自宅に届いていました。

 

最初のお書きしたように、今大会は、競技として開催されているように思ったのは、沿道の方からの、応援や声援はあるけれど、チョコなり、アメなり、選手に向けた差し入れが、コース全体でまったくなかったからです。

 

僕が、フルを走る時は、小分けになったチョコを、コース途中のエネルギー切れ防止のため、1袋分、ポケットに入れて走るのだけれど、今までの多くに大会では、沿道の方々から、これでもかと、チョコやアメをいただき、自分で用意したのは、ほとんど残ることが多いので、最近は、まったく持たないで走ることが多くなっていました。

 

今大会は、エイドに、梅干しなど用意されていましたが、僕は苦手なので、自分で、いざという時のために用意していたそのチョコに、スタミナが切れそうな時に、早めに、1粒、2粒補給することで、何度も救われることがありました。

 

長野マラソンは、制限時間がきつく毎年完走率が86%前後、号砲後のタイム制限のため後方スタートは約5~10分のロスを、最初から考慮しておく必要があるのは当然として、かなり厳密に関門閉鎖、ちなみに、信濃毎日新聞の記事によると、ランナーは、過去最多の9663人(男子8159人、女子1504人)が出走、7524人が完走したそうです。

 

 

なお、今日は、この信濃毎日新聞の「斜面」の記事を、シンプルに、以下、ご紹介したいと思いました。

 

『 ZARDの坂井泉水さんはレコーディング途中で歌詞の一部を書きかえたという。さびの「最後まであきらめないで」は「最後まで走り抜けて」になった。代表曲「負けないで」のエピソードだ。発売は1993年。既に「失われた10年」に突入していた。

 

 苦悩を深めた時代だ。特に若者たちは明るい未来を見通せず、不安に覆われていた。「負けないで もう少し」「追い掛けて 儚い夢を」というシンプルなメッセージは、共感を呼んで大ヒット。震災被害者の応援歌にもなり、教科書に載った。

 

 歌詞の書きかえで、ランナーにも欠かせない歌になったのかもしれない。きのうの長野マラソン。25キロ地点のホワイトリング前で、長野市の豊野中と裾花中の吹奏楽部が交代で「負けないで」や光GENJIの「勇気100%」など20曲以上演奏した。

 

 中間地点をすぎて、疲れが出やすいころ。苦しそうな表情だったランナーたちも演奏を聞くと生徒たちに笑顔で手を振り、後半に向け力を絞るように駆け抜けた。曲を選んだのは生徒たちだ。「走っている人が元気になれる曲を探した」という。

 

 坂井さんが急逝し5月で10年。NHKの当時の追悼番組で音楽評論家の富沢一誠さんは「(ファンにとって)人生の伴奏者だった」と評した。中学時代は陸上部だった坂井さん。ひとり頑張る人たちには、寄り添ってくれる応援が何よりも心強いことを知っていたのだろう。 』

 

この新聞には、完走者の記録として、僕の名前や所属として、とんかつまるとし、と記載されていて、本当にうれしく思います。

 

それもこれも、大会関係者やスタッフの方々、スポンサーの皆さんや沿道の応援の方々の皆さんのお蔭、本当に、心からの感謝の気持ちをお伝えします。

 

今大会で、負傷した、左足の指全部と、右足の親指、走り終わってから、赤く腫れ上がっていましたが、3日経ち、いつものように、アロエなど塗ったりして、腫れが若干治まってきました。

 

この文章も、次回で、ファイナルを迎えたいと考えております。