『ゴジラ―1.0』に引き続き、視聴。

こちらはお気楽東宝映画である。

 

真面目に観てると頭を抱えてしまうので、笑い飛ばして観るべし。

 

やはり、そう考えると、ゴジラ史において『シン・ゴジラ』は大きな転換点になっている。

つまり、これ以前はどれだけ「リアル路線」と大宣伝うっても、しょせんは怪獣映画なのである。

つまり、怪獣映画のルールで動いている世界なのである。

 

しかし、『シン・ゴジ』において限りなく、今の日本を舞台に、「マジでゴジラが出てきたら、どう対応するか」という問答をしたので、一気にゴジラ映画に求められるリアリティーが上ってしまった。

つまり、ゴジラがやってきたら人は死ぬし、簡単にゴジラは倒れないし、ゴジラが闊歩するだけで甚大な被害が出るということである。

 

同じ事がバットマン映画史における『ダークナイト』シリーズにもいえるだろう。

ティム版バットマンはリアリティなどどうでもよく、とにかく視覚的に楽しいバットマンを志していた。私はそれが好き。

さらに、ティム版のバットマンはまさにアンチ・ヒーロー的。

でも、ノーラン版はやけに難しい顔して作ったクソ映画だと思う。

リアリティを上げることで「大人の鑑賞に堪えうる」みたいな評判を得たけど、ティム版だって同じだから!

リアリティが上るってことは、劇映画的には窮屈になる=できることが減る、ということだから!

 

さらに、同じことが『ジョジョの奇妙な冒険』にも指摘できる。5部までは、「なんでもあり」がすんなり受け入れられたが、6部は絵柄がちょっとさらにリアリスティックになったこと、「刑務所」を舞台にしたことで、やけに現実感、現実性を主張した作品になった。その割に作品内では「透明ゾンビ」とか「風水」とかを扱うので、作品の設定と内容がかみ合わず、「え?この設定でその理屈はさすがに無理じゃん」と思ってしまう。