私が読書にハマったのは、高3のころ。

学校の図書館にある本を片っ端から読みまくった。

なので、毎日のように図書館で本の貸し借りをしていた。

 

で、その中の一冊が村上龍の『フィジーの小人』だった。

これが私にとっての、最初の村上龍。

かなり驚いた。こんなことを小説に書いていいのか?とさえ思った。

 

フィジーの小人、それ自体は村上龍の作品群の中で、決して評価の高い作品ではない。

どっちかといえば「テキトーに書いた小説」の1つである。

フィジーの小人は1993年の作品だが、このあたりの彼の小説はどう考えてもやっつけ仕事としか思えないものが多い。

だが、そのかわり作品数は多く、まさに大量生産大量消費的な感じだ。

 

今思うと、『フィジーの小人』は現代版『家畜人ヤプー』をやりたかったのだ。あるいは、『ソドムの市』であろう。

 

でも、小説序盤の小人が自身の恥を隠す表現で、虹色のレインコートを纏うというのには感心した。

たぶん、この小説は行き当たりばったりで書いているので、最初はそういう詩的感覚が横溢していたが、醜女が出てきて、小人の肛門に鉄球を入れるあたりからオカシくなり始め、破綻する。

 

途中で破綻する小説の初体験だった。もう途中からSM、スカトロ描写のオンパレードで脳が麻痺った。

さらに、結末も小説内ストーリーが完結するわけではなく、ブツ切れで終る。