1989年当時のオーストリアからは、東側諸国へ行くことが比較的簡単でした。
週末には高速バスに2時間半ほど乗ってハンガリーのブダペストまで観光と買い物に行くツアーもあり、私も初夏に友人数人と参加しました。
当時のハンガリーは東側諸国の中では経済的に安定していて、民主化も徐々に進んでおり、訪れた時にもそこそこ豊かな国と感じましたし、物価が安い分お得な印象でした。
ブダペストの街にも活気があり、当時私が歌えた唯一のマジャール語の歌(Mátrai képek)の正しい発音をガイドさんに教えてもらったりして、勉強の合間の楽しい気晴らしでした。
なので、東側も西側とそこまで違わないのかも、と思ってしまったのでしょう。
ウィーンにいる間にどうしても行っておきたい場所がありました。
ブルガリアにあるリラの僧院(リラ修道院)です。
一週間か数日だったか覚えていませんが、短期で滞在できるビザをウィーン市内にあったブルガリア大使館で申請しました。
東側諸国へのビザの申請は、中立だったオーストリア国内では西側諸国で申請するよりも簡単でした。
通過する旧ユーゴスラビアは、通過だけなのでビザが不要だったのか、あるいは別に申請したのだったか、今となっては思い出せませんが、東欧への一人旅に出発前はワクワクしていました。
ウィーンから列車に乗り、旧ユーゴスラビアを縦断するように首都のソフィアを目指しました。
途中、ベオグラードで停車した時にちょっとだけ現金を両替し、サンドイッチや水を買いました。
帰りも同じルートの予定だったので、使った金額と同じだけの額を財布に残しておくことにしました。
列車を間違えてしまい、起きたらブルガリアではなくギリシャにいたなどの若干のアクシデントはあったものの、無事にソフィアに到着しました。
ユーゴスラビアを通過している時に、街に活気がないとか、行き交う人の顔が暗いとか思いましたが、ソフィア市内はそれ以上に暗く重い空気が漂っていました。
デパートのようなところに入り、お土産になりそうなものを探すことにしました。
繁華街と言っていいのかどうか分かりませんが、活気はなくてもソフィア市内中心部の大きなお店なのに、品揃えは驚くほど限られていました。
店員さんが声をかけてくることも、近くに寄ってくることもありませんでした。
何度も声をかけて、ようやく一人の店員さんに近くまで来てもらえました。
「これの色違いはありますか?」
と尋ねると、
「ない。」
と一言だけ言ってそのまままた奥に引っ込んでしまいました。
呆然としました。
売ろうという気持ちが全く感じられませんでした。
おそらく売れるように努力しようと、最低限の仕事だけしようと、給与は同じなのでしょう。
共産主義で横っ面を叩かれたような気がしました。
民泊を予約していたので、住所を頼りに行ってみると、大きな団地の中の一室でした。
周囲の様子から、平均的な市民が暮らすエリアのように見えましたが、もしかしたら平均以上だったのかもしれません。
老夫婦が二人で暮らしていて、家の中には年代物の家具が置かれていて、新しいものはほとんどありませんでした。
数十年タイムスリップしたような感覚でした。
観光中に知り合ったバックパッカーからは、これでもルーマニアよりはましなのだと言われました。
そのバックパッカーから聞いたのか、あるいは別の機会に知ったのか、そもそもそれが本当だったのか今となってはわかりませんが、
「ルーマニアでは夜間の電力を賄うことができないので、灯りをつけると西側の空爆の標的になると言って国民に夜は電気を使わせない」
のだ、と。
貧しいという以外に、ブルガリアやルーマニアの状況を表す言葉を見つけられませんでした。
これが、アメリカや他の西側諸国と覇権を争っている東側の実情なのかと思うと愕然としました。
バックパッカーが数日見ただけでは本当のところはわかりませんが、逆に言えばその程度も隠しきれないほどの困窮ぶりということなのかも知れません。
数日をブルガリアで過ごし、いろんなことを考えながら、ウィーンに向かう列車に乗り込みました。
列車の中でも、東西格差を痛感させられるような出来事が幾つかありました。
ぐったりしてベオグラードに到着した私は、残しておいたディナール(旧ユーゴスラビアの通貨)で飲み物と食べ物を買おうとしたのですが、何一つ買えませんでした。
急激なインフレで、値段が一週間前とは大きく違っていたからです。
手持ちのシリング(オーストリアの通貨)を再度両替する気にはなれませんでした。
たった一週間で水一本分にもならなくなったディナールを財布に戻し、空腹と喉の渇きを我慢しながらひたすらオーストリアに入るのを待ちました。
東欧の音楽は結構好きです