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学生時代、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の曲のReuge(リュージュ)のオルゴールを持っていて、中にはベルリンの壁のかけらを入れていました。

さて、の続きです


大学の一回生が終わると同時に休学手続きをして、私はウィーンに行きました。

留学すると決めてからはバイト三昧の生活で、とにかく留学費用を貯めようと思いました。

英語圏への留学ではなくドイツ語留学にしたのは、一年丸々使うならそこそこ身についている英語じゃなく、ほとんどできない別の言葉にしたいな、と思ったからです。

第二外国語で一年ドイツ語を履修していましたし、成績も悪くなかったはずですが、渡欧の時点では簡単な自己紹介と数字くらいしか頭に入っていませんでした。

行きの飛行機の中で、ホストファミリーに挨拶するために、

「はじめまして。お目にかかれてうれしいです。」

という文を一生懸命暗記しなくてはならなかったほどです。


留学先をウィーンにしたのは、音楽が理由だったのもありますが、ドイツよりも語学コースの学費が安かったからです。

ウィーンがチェコのプラハよりも東にあって、所謂スパイ天国になっているというのは、正直あんまり考えていませんでした。


オーストリアは第二次世界大戦後アメリカ、フランス、イギリス、ソ連の四カ国に国土を分割統治されていて、特にウィーンは都市そのものが分割統治されていました。


ウィキペディアより

Viennaがウィーン


オーストリアが1955年に永世中立宣言をするまで分割統治は続き、オーストリアの中でも東端にあるウィーンは、やがて東側と西側を繋ぐ場所になっていきました。


オーストリア人とウィーン人は違うと当時はよく言われましたが、私の印象ではウィーンっ子は京都人に少し似ていました。

京都人より更にプライドが高くて、未だにハプスブルク帝国の栄光の名残りの中で夢を見ているようなところもあり、街の至るところでその歴史の重みと過去へのこだわりを実感しました。

ウィーンに限らず、ヨーロッパの街、それも一度は歴史の中で重要な役割を果たしたことのある街に行くと、過去が続いて今になっていると意識させられることがよくあります。

いろんなものが目紛しい速さで変化していく日本にいると、例えそれが奈良や京都のような古都であっても、歴史が途切れてしまっているように私は感じます。

日本には古いものも確かに残ってはいるけれど、それが現代とは隔絶したもののように感じるのです。

ウィーンは逆に、20世紀も終わろうとしているのに、そこだけ18世紀や19世紀に取り残されて時が止まってしまっていると感じました。

そこで暮らす人が未来を見ているのか過去を見ているのか分からなくなることもしばしばでした。

当時のウィーンは、私にはそんな風に見えていたのでした。