現実の中で生きているから

現実に起きていることに常に気をとられるけれど

現実がすべてなのではなく

現実はあくまで本質の断片を映しているにすぎない。

そんな気がする。


現実の中、身の回りで起こるいろんな刺激に対して

一喜一憂してしまうが

人生がその繰り返しで終わってしまうのは

ちょっと違うんじゃないか。


この世に現れているモノゴトの本質は

覆い隠されていて

私たちの魂の奥底の眼を使ってしか

見ることができない気がする。


なんでそんなめんどくさい仕組みなのかはわからないけれど

そのプロセスの中でのみ

魂は磨かれるのだろう、きっと。


とにかく、現実の

この合意的現実の中での価値観とかルールとかを

自分の生きる軸に持ってくると

必ずどこかでひずみが生じるように思う。


自分の内側、心の底に響くメッセージであることが大事。

現実的な価値観を先に考えると

自分に、自分の魂にとって大切なことが

いつまでたっても見えてこない。


子供の頃、キリスト教で殉教していく人たちの気持ちが

1ミリもわからなかった。

今もわかるわけではないけれど

その人にとって、心の底に響いたメッセージがそうだったのだろう。

そういう体験を通してしかわからない事柄というものが

やはり何かしらあるんだろう。


脳や体に障害を持って生まれてくるということは

現世的価値観からすると

ハンデでしかない。

実際、現実の生活の中では、日々タイヘンである。



子供に障害があれば

その子が少しでも現実の中でラクに生きられるよう

親としてできる限りのことをするのは当然だ。



けれど、その対応はプロセスであって

目的ではない。

タイヘンなことが軽減されて

自分も子供もラクになって、ああよかった。

ということだけを目指すために

私はこの現実を体験しているわけじゃないと思うのだ。



現実の中の自分は、言ってみればひとつの役みたいなものであって

その役を通して

「何を感じ取り、学び取るのか」

が生きている意味なんじゃないかと思う。


障害を持って生まれてくることは

メリットとかデメリットとかそういう軸に意味はなくて

その役を通してしか

感じ取ったり、学び取ったりできない

何かがあるのだろう。



ひとつひとつの役ごとに

かならず課題があるのだから。

自分の役の課題について

改めて考えてみたい。


























もう数日経ってしまったが

オバマ大統領就任の一連の報道に

いつになく注目してしまった。


ワシントンに集まった人、約200万人もすごいが

この就任の演説を

世界中でいったいどれくらいの人数の人が聞いていたことだろう。


一人の人の発言に

世界中がここまで注目する。


私はさすがにケネディ大統領の就任時には

この世には居なかったので

たぶん生まれて初めて

これほどの「注目されている様子」を体験してる気がした。


普通の人間の神経では

まずここまでのプレッシャーに耐え切れないだろう。


なのに彼は

期待通り、もしくはそれ以上の名演説を

しかも噛むことすらなく

感動的なまでにしっかりとやり終えた。


彼の言動、行動、そのすべては

一人の人間のなしうる範囲を超えていると思った。


だいたい、あの長い長い大統領選挙を勝ち抜いて

やっとここまで来たこと自体

すでに普通の人間なら

心身とも完全に消耗し尽くしちゃってるんじゃないか。


彼には、一個人の枠を超えて

大きな、大いなる力が働いている、そんな気がする。


歴史を遡れば

ヒトラーとかスターリンとか

ああいう類の人にも

同様に大きな力が働いたのだろう。


オバマ氏が今後もまっすぐ

明るい道を歩き続けてくれることを

願ってやまない。






久々に、ちょっとネットでブログなど読んでみたら

「聞き上手」という内容が目に留まった。


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高級クラブのホステスさんたちは、
お客さまが何を話していても、
否定することはしません。

「そうでしたの?」「さすがですね」「それで?」と相槌を打つだけでなく、
「よく頑張られましたね」「たいへんでしたね」と励まし、
「○○さんにしかできないですね」と相手を立てる。さらに
「私に教えてください」「知りたいわ」と自尊心をくすぐり、
「今日は勉強させてもらいました」「ありがとうございます」と感謝します。

そして、最後のポイントは、
求められたときだけ、意見を言うのです。

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なるほど。

今初めて聞くような内容ではないけれど

とてもとても心に響いた。


日ごろ、意識してないと

ついつい

何か言わなくちゃと

聞かれてもいないのに

自分の意見をとうとうと述べてしまう。


何かの相談を受けたときも、そう。

けれど、そのとき相手の人は

どう感じているのだろう?

私がその人だったらどう感じているのだろう?


「こちらの気持ちをわかってほしいだけなのに」

そう、まちがいなく

私だったらそう思う。


自分の気持ちをわかってほしい。

そして、わかってもらえなくても

せめて肯定してほしい。

もし、わかってもらうことも

肯定してもらうことも

かなわなかったとしても

せめて聞いてもらえたら

それでいい。


最悪なのは

的外れな答とか

自分の考えが延々と返ってくること。


「話すんじゃなかった・・・」

絶対、そう後悔する。

自分の話を聞いて欲しいだけなのに。


そうそう、そうなんだ。

私も、そしてきっと誰もが

自分の話を聞いてほしい。

できれば肯定してほしい。

褒めてもらったりしたら

本当にうれしくなっちゃう。


ちょっと考えれば

たったこれだけのこと。

してほしいことを、してあげればいいのに。

それだけのことなのに。

これがなぜだか、なかなかできない。


なんでかな。


やっぱり、それは

自分の言いたいことを言って

すっきりする快感、欲求のほうが

勝っちゃうから、かな。


とっかかりは

「何かいいアドバイス言わなくちゃ」

だったとしても

結局言ってるのは

自分の考え、自分の言いたいことなんじゃないか。

禁煙したい、禁煙したほうがいいに決まってる

とアタマでわかっていても

一瞬の快感の方が勝ってしまう、

それは、きっとおんなじ原理かも。


喫煙の弊害が

もうだめだ・・・というところまで来てしまい

禁煙せざるを得ない日々が続いて

「あー、この状態の方、ほんとすっきり気持ちいいな「~」

と、心から感じる日々が日常化したら

ようやくそれを「自分に定着させよう!!!!」

と心に誓うのだろう。



子供の頃、母が私の話を、私の想いを

受け止めてくれたという記憶が

私にはない。


そして、そのまま大人になって

人の「悩み」というものを

相手の身になって聞くということが

どれだけできてきたんだろう。


今日、改めてそんなことを考えた。


喫煙の日々よりも

煙草のない日々のほうが、すっきり気持ちいい。

聞き上手になれたら

人と生きる人生が、もっとすっきり気持ちよくなるような気がしてならない。