現実の中で生きているから
現実に起きていることに常に気をとられるけれど
現実がすべてなのではなく
現実はあくまで本質の断片を映しているにすぎない。
そんな気がする。
現実の中、身の回りで起こるいろんな刺激に対して
一喜一憂してしまうが
人生がその繰り返しで終わってしまうのは
ちょっと違うんじゃないか。
この世に現れているモノゴトの本質は
覆い隠されていて
私たちの魂の奥底の眼を使ってしか
見ることができない気がする。
なんでそんなめんどくさい仕組みなのかはわからないけれど
そのプロセスの中でのみ
魂は磨かれるのだろう、きっと。
とにかく、現実の
この合意的現実の中での価値観とかルールとかを
自分の生きる軸に持ってくると
必ずどこかでひずみが生じるように思う。
自分の内側、心の底に響くメッセージであることが大事。
現実的な価値観を先に考えると
自分に、自分の魂にとって大切なことが
いつまでたっても見えてこない。
子供の頃、キリスト教で殉教していく人たちの気持ちが
1ミリもわからなかった。
今もわかるわけではないけれど
その人にとって、心の底に響いたメッセージがそうだったのだろう。
そういう体験を通してしかわからない事柄というものが
やはり何かしらあるんだろう。
脳や体に障害を持って生まれてくるということは
現世的価値観からすると
ハンデでしかない。
実際、現実の生活の中では、日々タイヘンである。
子供に障害があれば
その子が少しでも現実の中でラクに生きられるよう
親としてできる限りのことをするのは当然だ。
けれど、その対応はプロセスであって
目的ではない。
タイヘンなことが軽減されて
自分も子供もラクになって、ああよかった。
ということだけを目指すために
私はこの現実を体験しているわけじゃないと思うのだ。
現実の中の自分は、言ってみればひとつの役みたいなものであって
その役を通して
「何を感じ取り、学び取るのか」
が生きている意味なんじゃないかと思う。
障害を持って生まれてくることは
メリットとかデメリットとかそういう軸に意味はなくて
その役を通してしか
感じ取ったり、学び取ったりできない
何かがあるのだろう。
ひとつひとつの役ごとに
かならず課題があるのだから。
自分の役の課題について
改めて考えてみたい。