自分に似た年齢のひとたちが

どんどん能力を上げている。

責任あるポジションで

まわりから頼りにされ

イキイキと仕事をしている。


そういう様子にふれるたび

寂しく痛いような気持ちに襲われてしまう。


嫉妬しているわけではないと思うのだ。

「これといって必要とされていない、認められない今の自分」

に対して、痛い気持ちになってしまうのだ。



悔しい。

だから、頑張ろう。


長い間、そう思い続けて

ここまで来てしまった。



認められたい、という感情は誰にだってあるし

それ自体が悪いことじゃないかもしれない。

けれど、それが

心の中ですごく大きなウェイトを占めている状態とういうのは

ひょっとしたら危険なこと。

もっと言うと不幸なことかもしれない。



なぜならば、その状態って

常に外からの要因に左右され続けるからだ。



自分に都合のいい刺激が続くなんてコト

絶対にありえない。

そんな不安定なものに振り回されたくない。



どんな状況であっても

自分の気持ち、自分の魂が

すっきりと気持ちよくいられる、

そんな心の持ち方は、必ず在るはず。


そんな心の持ち方を自分の軸として生きていく。

それが幸せに生きる一番の近道なんじゃないか。



謙虚に生きるって

美徳だからとかそういう高尚な理由からではなく

単純にそれに沿って生きよう!!

と心に決めるほうが

苦痛の絶対量が減るように思う。



自分が何かで勝つ、何かで優越するってことは

同じだけの数の負ける、

優越される人が存在するっていうこと。

例えば10人がそこにいて、

一人だけが勝つのだったら

単純な確率論で行けば

10回に9回はつらい思いをすることになる。

そもそも「勝つ」とか、「優越する」を目指すから
そこから不幸が始まる気がする。


最初からそんなもんを目指さなければ

10回とも幸せな気持ちでいられるような気がする。


人と比べない。

人から認められようとしない。

それが自分のスタンスとして身につけることは

幸せに生きるための、ひとつの近道だと思う。

それは単純な理由。

人と比べることから苦しみが生まれるから。

人から認められたいと思う気持ちもまた同じ。










コピーライターの事務所をしている友達から

久々にメールが届いた。

タイトルは花粉症だったが

内容は仕事激減、まじでやばい、

とゆう主旨のものだった。

たしかに世間は不況、仕事がないという話は

あちこちで聞く。



とりあえず具体的にチカラになってあげられることが

思いつかず

「祈っておくから」

のようなことを書いて送った。

そしてこの後何か仕事が入ったら

きっとそれは私の祈りのチカラだから

ともつけ足しておいた。



たぶん、メールを受け取った本人は

本当に効くとは1ミリも信じてくれてないと思う。

「祈るチカラは侮れない」

もう少し補足してみようと思ったが

言えば言うほど、「これだから会社員はお気楽だ」と

神経を逆なでするんじゃないかという気もして

やめておいた。



本気で祈り続けたら

かなりの確率でそれは現実となるはず。

感覚的に私はそう信じているのだけれど。


でも、こう改めて書き留めてみると

じゃあ、まず自分自身と身の回りのことを

すべて希望通りになるよう

祈ったらどうだ?それってどうなってるわけ?

そう自分自身に問うことになってしまった。



大したことじゃなくたっていい、

もう少しお金持ちになってみるとか

もう少し美しくなってみるとか

どんどん祈って現実化すればいいじゃんってことになる。

本当にそうなると信じてるんだったら。



だけど、やってない

やってないってことは、

本気で心からそういう気になれないからかな。

お金がもっと欲しいとか、もっと美しくなりたいとか

心から思えるか??思えない。

これ以上貧乏になったら困るとか

これ以上太りたくないということは

わりと真剣に思っているから

逆にいえば「祈りが現実化」はしてるんだろう。



現実化するかどうかはきっと

想い自体の強さ×続ける忍耐力の総和量だ。

完全にそうなった様子を思い描き

100%信じ、しかも想い続ける。

それが実際には案外困難なのだ。

何で?何で困難なんだろう?想うだけなのに。



たぶんそれは、

長く生きてるから、ものすごく膨大な情報が

自分の内側にインプットされて

純粋に信じる気持ちを薄め邪魔するのだろうな。

実際、毎日の中では、

瞬時にいろんな経験に照らし合わせて

危険を回避しなくちゃいけないし。

また、仮に純粋な状態を作り出せたとしても

思わず悪い想いが出てきちゃって

それが現実になっても困るワケだし。

いろんなリスク回避のために

自動ストッパーが働いてるってことかもしれない。




ならば自分の中で

「今は祈りだから純粋に」

「今は日常だからリスク回避優先に」

と内側に対してスイッチを上手に入れられたらと思う。

そうすれば、現実がどんどん豊かになっていく



そうだ、今そう思った、ということは

純粋にそう想っていけば、そういう自分になれるということ。



続かないってモンダイもあるな。

「それをやろう!!」と意気込んだことで

長く継続できるなんてことはめったにないな。



おだやか~な気持ちで、静かに祈りたいことを考え

ひとつかふたつ、ゆる~く続けることなんだろう。

スイッチとか、いかにも顕在意識の考えそうなことは

本質の力ではないんだろうな。きっと














「マンガだったらオレにも読める!」

そんなポップが目に留まり

まじまじと売り場を見てみると

いわゆる「名作」の数々がマンガ化されて積みあがっていた。



別のポップが呼びかける。

「タイトルは知ってても、読んだことある?」

鋭いところをついてくるな。

「資本論」「君主論」からはじまって

「罪と罰」「赤と黒」「わが闘争」・・・

タイトルはたしかに全部、私でも聞いたことのあるものばかり。



多少は読んだモノもある。

罪と罰とかわが闘争とか、家の本棚を探せばどっかで眠ってるはず。

罪と罰は小学生の頃、叔母が貸してくれた。

わが闘争は同じ頃、本屋で見つけて買った気が。

しかし小学生にとってあまりに重く

大人になったからといって読みたくなることは決してなく

ああ、30数年借りっぱなしだ罪と罰。

おばさん、ごめんなさい。



ドグラマグラにいたっては読みたくて買った本なのに。

途中であまりに恐くなって

上下巻のたしか上巻の途中で止まってる。

もう10数年止まりっぱなしだ。

結末は結局どうなったんだろうと、久々に気になった。



「マンガだったら私にも読める?」

すごくそんな気がしてきた。

買いたい本はいっぱい、1冊500円、わーどうしよう??

でもまずは1冊から、だな。


ということで、私が選んだ1冊は

「神曲」。


一度は読んでみたかった「神曲」。

がしかし、なんとなーく敷居が高いのが「神曲」。

富士山にでも登る決意がないと

到底読めそうにない。

そんなイメージが勝手に自分の中にあったので

こんな形で「神曲」に触れることができるとは

夢にも思わなかった。



「マンガだったら私にも読める。」

ほんとに一気に読み終えることができた。

そして想像以上にすばらしい作品だった。



昔に読んでいたら

すばらしいと感じることはなかっただろう。

この年齢、このタイミングでこそ

わかる部分もある。

いくらマンガとはいえ・・・。



あの世がなければ

この世のすべての正義はありえない

というようなことを

たしかカントがおっしゃっていた気がするが

神曲にはそうした考えが

この世のすべてが

人生のすべてが

ひとつの物語に凝縮されている。

そんなふうに感じた。



カントといえば「純粋理性批判」、

これはマンガにできるんだろうか。

マンガだったら私も、、、

いや、だったとしても、読めないなきっと・・・(笑)