神武東征上書き説 仮説提示 5 | 東之宮古墳 発掘写真集

東之宮古墳 発掘写真集

犬山市 白山平 東之宮古墳 覚え書 (前方後方墳)

 1951年 古代学研究   小林行雄「家形石棺」で 京都大学考古学の嘱託・講師の小林行雄氏は、家型石棺は家型埴輪を母体に生まれたが、魂去来の依り代として家型埴輪が存在したのに対し、家型石棺は死語の世界での肉体の永住を具現化したもの。という見解。

見事に 家型埴輪が家型石棺の母体 と1950年代で喝破している。

 

 その後  家型石棺は 編年という概念が形成されるのに対し、家形埴輪の編年は 21世紀 未完成。

 

 家型埴輪の編年へ  取り組まない最大の理由の一つ、それは円筒埴輪への川西編年(1973)の存在。

川西は冒頭で家型・形象埴輪の編年を切り捨てて、円筒埴輪へ焦点をあてて 円筒埴輪編年を構築。

(概念形成は、須恵器の杯の身の口縁部の立ち上がりの高さの程度で時期を判別するという手法と類似した、突帯の数とサイズからの時間把握という様式論・形式論)

 21世紀 本来は家型・形象埴輪への編年研究が進展可能な情報の累積が有るが、なぜか 公務員系考古学徒 円筒埴輪への編年の細密化へ猛進。

 

 定型化後の須恵器は 古墳時代後期の産物、倭国内で、形状変化への同期が知見できるが、家型埴輪は古墳時代中期の産物、まだヤマトが倭国部族連合を支配する以前の時期にあたり、定型化以前の須恵器と同様に 各地 様々な家型埴輪が併存していた。

 すなわち 定型化後の須恵器と同様に 一律的形状変移が 家型埴輪の編年思考でも通用する という勘違いが見られた。 

 

 家型埴輪編年へなかかな取り組めない もう一つの理由、それは家型埴輪の編年が、畿内の家型埴輪だけの思考では、概念形成(骨董的様式論)が困難な点。 

  

 関東の家型埴輪 素人目からは 各地域単位の編年・分類が可能のように見えるが、なかなかトライする研究者が出てきていない。

 関東は火山灰/スコリアで層位区分が可能

 

 

 本年 橿原考古学研究所の博物館にて、家型埴輪の特集、6/15にようやく見学しました。

 家型埴輪の実物を多数見る事が出来たが、解説者は、戦前の森本六爾すら家型埴輪の編年を諦めた、という説明で 家型埴輪の編年の困難さを説明。

 畿内の場合、家形埴輪の編年は困難であったが、佐味田宝塚古墳の家屋文銅鏡の家型画像に関して、竪穴式住居を上にして 家型のモチーフがすでに奈良で出現した。として 奈良の先進性を説明。  

 大坂の御園古墳や平尾城山古墳などが 他地区に先行するという見解を解説者は提示。

 その編年的裏付けとして、家型埴輪の屋根の内側からの閉塞粘土の貼り付けAとBの分類から、閉塞AがBに先行するという見立てでした。

 東大寺山古墳の環頭鉄刀の竪穴式住居の家型レリーフでも 天井部からの煙だしが想定でき、関東の家型埴輪では奈良のような閉塞ではなく 屋根の上端が開方されたものが多く、これはネイティブアメリカンの三角テントやモンゴルのパオでも同様、煙だし目的で天井部の一部が開放された事例と同じ。

 

 正確性からは関東の方が正確、ただし形状デフォルメ化の度合いは関東が勝る。

 

 形状への骨董的編年観である 様式論/形式論では、最初の物ほど、正確に造形、フォルムも実際の家屋に近いものが最古、時代を経るにつれデフォルメ化が進行。

 家型埴輪に関して この様式論は各地域単位で思考すべき。家型埴輪はそうした対象。

各地域での嗜好の違いが 家型埴輪持ち込み地である奈良盆地では混乱として発現するのでは?   

 

 私の想定は 奈良盆地は墓域、という墓域説。

各地の支配者層が 近畿圏の天下とりを奈良盆地で繰り広げて、奈良盆地では 前期古墳に、他地区のような始祖墓が無いのはその反映。と想定しています。

 

 埴輪は器台と円筒のグループから楕円/ヒレ付きの円筒埴輪へグループが変化。

石棺は舟形から・家型石棺・組み合わせ石棺へ変化。

これらは奈良への進出グループの変化。 彼らの王墓は その構成員・組織のサイズで変動していて、古墳時代前期の奈良盆地は 始祖墓が形成されていない。と考えています。

 この奈良へ 家型埴輪を葬儀用途で用いるグループは他地区から侵入した。 

 他地区は 各々独自に 家型埴輪を作製、その差異が奈良盆地の侵入タイミングで異なるので、畿内での形象埴輪の研究は 森本六爾他 歴代研究者が 手ごわいと感じた。

 

 すなわち 各地域ごとの家型埴輪/形象埴輪への研究と編年考察が求められ、それが今後の課題。

 

 また、家型石棺が巨大化・重量の増加の過程で、家型石棺への覆いとして古墳時代前期仕様の小口積みで対応した。

この見かけ上 竪穴石槨は、石棺の重量アップ・巨大化から、棺の墳丘への上からの吊り下げインサートが、平行移動でしか 墳丘内に収めれない重量サイズへ変化し、結果として畿内系横穴式石室が誕生した。

 

 当然 他地区の中には 畿内より先行して横穴式石室構造を採用していた地区が存在し、少数精鋭で奈良盆地に侵入した勢力は 在地の作業員を採用して 正円前方後円墳という王墓を構築。

侵入者・かれらは家形石棺と家型埴輪を共に採用し、葛城で 王墓と王権維持工房と王都を作った。

 

 当初の家型埴輪は 亡き神聖王(祭政一致の王)の依り代として竪穴式石槨の上部への墳丘上に立地。

 次いで 被葬者への葬送儀礼用、王の葬儀セレモニー・パレードモニュメントとして家形埴輪群が採用されて家型埴輪の用途が変化。

 船形石棺から形態変化した家型石棺は、被葬者の永劫の寝室・ベッドとして取り入れられた。

 当然 石棺の自重は重く 結果として畿内系横穴式石室が発生した。

 

倭国部族国家から 倭国統一化への物質的証明 

 定型化以降の須恵器と畿内系横穴式石室の、倭国への波及は同期している事案。時期は古墳時代後期。

 

埴輪と石棺 

 家型埴輪は古墳時代中期に出現。当初は各地の王墓用、その後は王墓以外にも普及。 一方 家型石棺は 中期から後期へ 王墓用途として継続。

 製造への手間、そのコストは 異なる展開として表出、

家型埴輪は、当初 地下の亡き王の棺の真上に位置する依り代。

その後は墳丘上の常駐モニュメントへ変化。

 一方 石棺は 当初から 各地の王への棺という立ち位置は変わらなかった。

  

 この家型石棺を 奈良 次いで河内に持ち込んだグループが、墓域であった奈良盆地にて 初めて 王権を確立。

 場所は 葛城地区。 

王権維持への物品生産工房、方形区画住居、そして王墓、鉄のリサイクル鉄器生産という 王都が葛城で出現した。

 彼らの棺は家型石棺。

その囲みとして 見かけ上 竪穴石槨的石組。 

石棺の自重増大から 上からの石棺搬入が困難となり、畿内系横穴式石室が生み出された。

 

 家型埴輪は性質を変えて 継続。 下位の墓へも採用され、同様に畿内系横穴式石室も下位の墓に採用された。