ルドルフ・ゼルキンの名がわたしの心に刻まれたのは、彼のベートーヴェン・ピアノソナタの28番と31番の入ったレコードを聴いた時だった。現在、同じものをCDで持っているが、最初はレコードで買ったように記憶している。それは大学生の時で、国立市のアポロというレコード店である。
ゼルキンの演奏は不思議な魅力を持って、心に響いた。
それまでのわたしは、ベートーヴェン後期のピアノソナタなら、ヴィルヘルム・ケンプ以外認めないと突っ張っていた。今からふり返ると、若気の至りと呼べるような心のあり方である。
ところがゼルキンの演奏は、何度聴いても、まったく飽きないのだ。
いつでもわたしの心を落ち着かせ、深い世界へと誘ってくれたのである。
それは今もまったく変わらない。
近頃、以下のCDを聴くチャンスを得た。
ここに、同じ31番が入っている。
この演奏はゼルキンの生前にリリースされなかったもので、大学時代に聴いていたレコードとは異なった録音である。ところが、異なった演奏であるにもかかわらず、わたしに届いたのは、かつてと同じ、安らぎに満ち、深淵を感じさせるゼルキンの世界だった。
ブレンデルやポール・ルイス、そしてバレンボイムのベートーヴェンも大好きなのだけれど、こと後期のソナタにかんしては、ケンプとゼルキンだけが特別な高みに達していると感じてしまう。彼らの世界と比較できる演奏者を、わたしはまだ知らない。
ところが、上記のCDに入っているピアノソナタの1番を聴いて、少しだけゼルキンの秘密が解けたように感じた。それを文章化したくて、このブログを書きはじめた。
ベートーヴェンの1番は決して有名な曲ではないけれど、素晴らしいソナタである。
じつは、この曲にベートーヴェンのすべてが入っていると感じてしまうほどの曲なのだ。
この曲をシフの演奏で聴くと、若きベートーヴェンの感受性やその心の弾性のようなものを直に感じることができる。傷付いても回復する力のようなものを感じられる。また、この曲をバレンボイムの演奏で聴くと、若きベートーヴェンの野心や自信のようなものを感じられる。「よーし、やってやるぞ」 という意気込みの強さを聴くことができる。ピアノソナタの1番とピアノ三重奏の1番こそ、ベートーヴェンの若き姿が、もっともダイレクトに感じられる作品だと思う。
そんな1番をゼルキンで聴くと、まったく異なって響いてくる。
素晴らしい演奏であるが、シフやバレンボイム、ポール・ルイスとはまったく異なった曲に聴こえてしまう。曲の主張するものが、鋭い感受性でも心の弾性でもない。そこから流れてくるのは、運命を受け入れる姿勢のようなもの・・・・諦めのようなもの・・・・なのだから。
ゼルキンは、人生のどこかで、何か大切なものを諦めた経験があるのでは・・・・・・。そう勘ぐってしまうほど、枯れた心が伝わってくる。それを感じた時、彼の後期のソナタの秘密が、少し見えたように思った。
ベートーヴェンの後期が始まるのは、不滅の恋人と云われるアントニー・ブレンターノとの恋に終止符が打たれてからである。そして・・・・たぶんだが・・・・、ヨゼフィーヌ・ブルンスヴィックが彼の子供を産んだ後のことである。
ベートーヴェンはその時、人生でもっとも大切なものを手放さなければならなかった。そんな深い喪失の経験を経て、いや経たからこそ、あの孤独で、遥かに孤高な世界へと足を踏み入れたのである。
それは 「すべてを手に入れることはできない」 という諦観であり、一種の悟りのようなものであったのかもしれない。
そんな体験を、ゼルキンも経験したのではないか・・・・・・。
だからこそ、後期のソナタが、あれほど見事に響くのはないか・・・・・・。
上記のCDに入っているシューベルト最後のソナタを聴いて欲しい。
これ以上、孤独で孤高な演奏と曲があるだろうか?
そこには、身を焼き尽くすような憧れに生きながら、すべてを諦め、死まで覚悟したシューベルトの姿が見える。
そして、ベートーヴェン後期の世界とドア一枚で通じる世界がある。
ゼルキンの 『75歳記念カーネギー・ホール』 も素晴らしい世界を感じさせてくれる。ぜひ、ご一聴を。。。
*余談ですが、シューベルトの21番にはリヒテルの名演(ロマンティックの極地)があって、こちらもお薦めです。