環境の変化について・・・・・・ | トナカイの独り言

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独り言です。トナカイの…。

 本題に入る前、ラグビーのワールドカップについて一言。
 わたしの通った高崎高校は、ラグビーが校技でした。
 ですから、毎年体育の授業でみっちりとラグビーをやり、全学年によるクラス対抗のラグビー大会がありました。
 高校三年の時わたしのクラスが優勝し、そこで左ウイングを努めたことは、わたしの良き思い出となっています。ですから、あまり球技に関心のないわたしでも、ラグビーだけは別物。

 今回のワールドカップにおける日本チームの活躍に、大きく心を動かされます。そんな日本チームの躍進に、今日の本題となる環境の変化が、大きくかかわっているとも考えています。

 

 以下、本題。

 わたしは一九五五年一月の生まれです。
 小さな頃 ・・・・ 小学校に行く前のことですが ・・・・ 家には大きなタライと洗濯板がありました。それは、電気で動く洗濯機はなかったということです。洗濯という作業は、すべて手作業だったのです。
 両親は共稼ぎだったため、おばあさんが長い時間をかけて毎日洗濯していた姿が、目蓋に刻まれています。

 また、わたしの覚えている最初の冷蔵庫は、中に氷を入れて冷やすタイプです。今で言う保冷バッグを大きな箱にしたようなもので、とうぜん電動式ではありません。

 この頃、家にはテレビも電話もありませんでした。電化製品と言えば、ラジオとモノラルのレコードプレーヤーくらいでしょうか。

 家の中は、とても静かで、ゆったりとした時間が流れていました。

 

 小学校に入る頃、家に電話が通りました。近所の人が、時々電話を借りに来たことを覚えています。この頃、緊急の連絡はすべて電報だったのです。

 小学校低学年のどこかで、両親が洗濯機や白黒のテレビを買ったように記憶しています。テレビがカラーになったのは東京オリンピックの直前。そして自動車を買ったのも、その頃でした。それこそカラーテレビは、東京オリンピックを観るために買ったのではないでしょうか。

 

 中学に入った頃、両親が大きなステレオ(音楽再生装置)を買いました。あまりに美しい音がして感動したのを、よく覚えています。それまではモノラルの再生機で、レコードも SP盤 と呼ばれる一分間に78回転するものでした。レコードを掛けるたび、「シャー」 という耳障りな針音が音楽の背景に響きました。
 

 物心ついた頃、家にはすでにたくさんのSPレコードがありました。両親はそんなレコードでベートーヴェンやアルゼンチンタンゴを聴いていました。
 左右2チャンネルになったステレオ再生機で最初に聴いたのは、バックハウスのベートーヴェンです。その美しさや表現する内容に、体の震えるような衝撃を受けたことを今でもよく覚えています。

 中学から高校へと変わる頃、ステレオやテレビの性能が、グングンと上がって行きました。ただ、高校一年から十数年というもの、わたしはテレビを観ず、新聞も読みませんでした。
 ちょっと脱線する話ですが、なぜか 「みんな同じ新聞を読み、同じテレビを観ている」 と感じたのです。そして 「これではみんな同じになってしまう」、「だから十年くらい新聞やテレビから情報を得ることを止めてみよう」 と思ったのです。結局それは十年どころか二十年くらい続いて、話題の芸能人や首相の名前すら知らない時代が長く続くことになりました。

 三十才くらいになると、ファックスを持っていました。
 その頃になると、レコードはすっかり消え、音楽はCDの時代になっていました。レコードと異なり、針音がなく、摩耗もしないCDに、とても驚いた記憶があります。
 また脱線しますが、わたしが持っていたカール・ベームのモーツァルトのレコードは、聴きすぎて音が変っていました。同じ演奏をCDで聴いて、ほんとうに驚いた記憶があります。
 クラシック音楽にかんしてなら、メディアがSPレコードから始まり、33回転のLPへと変わり、そこからテープに、そしてCDへと移るのを経験してきました。フルトヴェングラーのベートーヴェンなど、このほとんどのメディアで買ったと思います。と言っても、SPとLPは両親が買ったものですが。

 リステルに勤めている頃、企画書を作るためにワープロを買いました。とても高価で、数十万円もしたことを覚えています。
 ワープロは三台くらい使ったでしょうか。

 独立して法人を立ち上げた頃、初めての携帯電話を購入しました。確か 030 から始まる番号だったはずで、値段は三十五万ほどもしたように覚えています。

 それから、いよいよコンピューターの時代が訪れます。

 一世を風靡した Windows 95 から、わたしはコンピューターを使い始めました。
 最初の一台を購入するのに、五十万円以上支払った記憶があります。今ふり返っても、「よく買ったなあ」 と思うほど高価でした。

 95 から 98 へ。そこからミレニアムへと買いつなぎ、いろいろ分からなかったり、故障したり、一回はハードディスクがクラッシュしたこともありました。やがて Windows XP を使うようになり、しばらく落ち着き、安定したようにも感じました。

 コンピューターを使い始めた頃、こんなことを思って、エッセイを書いたことがあります。
「どれほど苦労するとしても、『コンピューターを自由に使えたなら、想像もできないほど効率よく仕事ができるに違いない』 という確信を持ちました。それこそ、『コンピューターを自在に操ったなら、同じ時間で倍以上の仕事ができる』 と信じられました。そうなれば、『より多くの時間を自分のものにできる』 『好きな本を読んだり、好きな音楽を聴いたりできる』 。だからこそ、睡眠時間を削ってまで、コンピューターを学びました。
 … しかし、コンピューターを使うようになって数年が経ったころ、こんなことを悩むようになりました。『たしかに仕事は効率よくできるようになった。かつてとは比べものにならないほど便利にもなった。しかし、はたして自分の時間やゆとりは増えただろうか?』
 どう考えても、現実はより忙しくなっているのです。
 人類にとって現代文明とは、ちょうどわたしにとっての 『コンピューター』 のごとき存在ではないでしょうか。本来ならより 『ゆとり』 と 『自由』 を生みだしてくれるはずなのに、じっさいは忙しさを呼び込んでしまうのです」
 元々のエッセイはこちらにあります。
 http://tsunokai.org/Belief/Computer_and_I.htm

 

 コンピューターを使うようになり、昔よりずっと短い時間で企画書を書いたり、報告書を書くようになりました。だから、同じ時間で三倍の仕事をやるようになり、自由な時間は昔より少なくなってしまったのです。

 



 こうした変化を、ふつうは文明の進化と呼びます。
 しかし、じっさいに進化という言葉を使うべきかどうかには、大きな疑問を感じてしまいます。


 また余談になりますが、近頃、アマゾンのオーディブル(英語)で懐かしいアガサ・クリスティの探偵小説を聴いています。
 クリスティは百年前の作家なのですが、そこに描かれている人間は、今の人間とまったく変りません。同じ感情 ・・・・ 喜怒哀楽 ・・・・ に満ちています。小説を聴いて違和感を感じるのは、「あっ、今ならここは携帯電話だろうなあ」 というくらいです。
 だから、これだけ文明が進んでも、人間は進歩していないのではないでしょうか。
 それこそ、ギリシャ時代の哲学者の本を読み返すと、ギリシャ時代からほとんど進化していないとすら感じます。

 だから、環境の変化が人間を変える訳ではないと感じるようになりました。
 それより人間をより良く変えるために、どのような環境変化を創り出すかが問われているのではないでしょうか?

 今回のラグビーワールドカップを見ると、日本チームはほんとうに良い環境変化を生み出せたのでしょう。

 かつてフリースタイルスキーには用具を規定するルールがあり、男子モーグルなら190センチ以上の長さを使えとか、バレエなら身長の81パーセント以上を使えという規制が掛っていました。
 このルールが採用される前であれば、ほとんどの選手がより短いスキーを使っていました。そして、その時代にはツインチップやファット、それこそカーヴィングスキーまで開発されていたのです。ところが、こうした用具を規定するルールによって、フリースタイルスキーは明らかに後退しました。つまり環境変化によって、著しく退化したのです。

 環境変化は人間の心にまで影響を及ぼしますし、生きる姿勢や姿を大きく変えてしまうこともあります。

 近頃、よく見かける光景があります。それは、二人の人が向かい合って座っているのもかかわらず、二人共が携帯電話に夢中になっている姿です。こうした場面は、多くの人に風刺されているにもかかわらず、あたりまえになってしまいました。
 東京の山手線や地下鉄に乗ると、電車に乗る人のほとんどが携帯画面に見入っている風景も希ではありません。

 もうすぐわたしは六十五才になります。ふつうなら定年退職する年ですが、現実としてこれほど大きな環境変化を見てきたという事実に驚いています。そして、これからどのような変化が起こるのかに、恐れながらも興味を持っています。
 できることなら、人間がもっともっと生きやすく、安らぎを感じられる世界に向かう変化を見たいですし、起こしたいと願ってもいます。

 三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)のどれも存在しない時代から、スマホ万能と呼ばれるここまで生きて来て、その道程で感じたことを、少しですが書かせていただきました。
 お読みいただき、ありがとうございます。