価値観や感受性の変化 | トナカイの独り言

トナカイの独り言

独り言です。トナカイの…。

 かつてワールドカップの競技会を回っていた頃、長い移動時間のほとんどを、本を読んですごしていました。よく読んだのはアガサ・クリスティやシドニィ・シェルダンです。いろいろな国の飛行場で、彼らの新しい本を探しては、時間の限り読んでいました。
 当時クリスティの本なら、やはりポアロやミス・マープルの活躍する推理物が好きでした。ただ、いちばん好きだったのは、トミーとタッペンスが大活躍するシリーズで、特に 『The Secret Adversary』 を何度も読み返していました。日本語版では 『秘密機関』 というタイトルの本になります。

 いっぽうクリスティが、ウェストマコットという名前で出版した何冊かのふつうの小説には、それほど感じるところがありませんでした。

 そんなかつて何も感じるところのなかった 『Absent in the spring』 を、三十年ぶりくらいに読み返してみました。日本語版で 『春にして君を離れ』 というタイトルで翻訳されている物語です。
 圧倒されました。
 
 春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)/アガサ・クリスティー

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 地方の成功者とでも呼べる中年主婦が、長い旅の帰りに、悪天候で足止めされるという物語です。何も無い砂漠の駅前にあるホテルに泊まり、無為な時間の中で過去を思い出すのです。
 登場人物も彼女とホテルの人だけのような簡素な物語で、小説のほとんどが回想で成り立っています。
 回想のなかで彼女は、夫や娘という大切な人々との会話を反芻します。すると、それまで順調だと信じてきた周囲のとの関係が、実はそうではなかったのでは。成功という顔の裏側に、いつ崩れてもおかしくない危機的な真実があったのではないか、と感じはじめるのです。

 どんな人にも、自分なりの思い込みがあります。
 それはしばしば思い込んでいるその人だけのもので、周囲の多くの人が感じている真実や事実と食い違うこともあります。
 大なり小なり、どんな人にもこうした思い込みがあるでしょう。
 そして時にそんな思い込みが事実と大きく異なると、犯罪や悲劇に結びつくこともあります。
 この物語は、そんな自分の真実と他人の真実の間にある深淵を、みごとに浮かび上がらせます。しばし恐ろしい真実の顔を見せつけます。そしてふたたび、元のところにそっとしまい込むのです。

 この物語を読んで、ぎょっとしない大人はいないのではないでしょうか?
 そして若い頃、この物語に何も感じることのなかった自分は、何と幸せな青春時代を送ってきたのだろう…。
 そう感じた久々のアガサ・クリスティでした。
 決して長くも難解でもない物語です。
 ぜひお読みください。

 また他のアガサ・クリスティも読み返してみたくなりました。

PS.日本と韓国や中国との領土問題について、お互いの真実の食い違いという視点から考えることもできるでしょう。