今日、ドキッとしたことがある。
千曲中央病院で、スポーツドクターの望月先生とミーティングしている時のことだ。
たまたま、わたしたちの横のテーブルで、女医さんらしい方と患者さんらしい男性が話をしているのが聞こえてきた。
男性は70歳代後半だろうか。
かくしゃくとして、非常に整った顔立ちをされている老人だった。
「…そういう気は120パーセントあるのですが、じっさいは難しいのです」
こんな言葉が耳に入った。
最初はよく理解できなかったが、しだいに内容がわかってきた。
「…食事も自分で作り、何でも自分でやってきましたが、もうこれ以上それを続ける自信がない…」と話していた。
数年前に脳梗塞を患ってから、「食事を作ったり、歩いたりすることも簡単にはいかないのです」と続き、「ガスを消し忘れたり、風呂の火をそのままにしてしまうことも多く、なにが起こるか怖い」とも話していた。
内容から察すると、一人暮らしなのだろう。そして、脳梗塞により、身体が自由にならないのであろう。
「…たいへんな思いをしてスーパーに買い物にいき、品物を冷蔵庫にしまっても、時折買ったことすら忘れてしまう」のだそうだ。
そして、心をえぐる言葉がきた。
「人に迷惑をかけないで、死にたいのです」
これを聞いて、こんな思いが頭をよぎった。
この人は「いかに死ぬか?」に悩んでいる。
わたしの会社にいるのは若い人ばかりである。わたしを除けば、ほとんどが三十代前後だ。そして、彼らは「いかに生きるか」ばかりを考えている。しかし、となりのテーブルにいるご老人は「いかに死ぬか」を考えていた。
そして、もう一度ドキッとした。
「わたしもいかに死ぬかを考えはじめなければならない年齢になっている」と…。
現代の日本人は、「いかに生きるか」ばかり考えてこなかっただろうか?
しかし、「いかに生きるか」と同じだけ、「いかに死ぬか」は大事なのだ。
自殺というのはその昔、「若きウェルテルの悩み」に象徴されるように、若者のものだった。しかし、若者の自殺が減り、今もっとも自殺する人は50代である。つまり、かつては「いかに生きるか」で死に、今は「いかに死ぬか」で、多くの人が死んでいる。
もしかしたら、今まで忘れてきた「いかに死ぬか」、それが価値を増しつつある時代なのかもしれない。
わたしも「人に迷惑だけはかけないで死ぬことができたら嬉しい」
そう感じた午後だった。