ロンドンで飛ぶように売れた貝細工  マーカス・サミュエル 勲一等旭日大綬章 
創業 ライジングサン石油設立。横浜に本社を構える。 帝国船舶(現在の昭和シェル石油船舶)のコースタルタンカー 

 
横浜に本社のライジングサン石油設立           シェルのタンカー 

東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れ英国に移住しロンドンの貧民街イーストエンドに住む妻アビゲイル・モス(?1874.12.11)と夫初代マーカス・サミュエル(1799.4.4-1872.11.24)は貝細工や骨董、雑貨を売り歩く行商人だった。荷車に積んで、路上で売ることで生計を立てていた。11人子供があり10番目の息子は、大変頭が良かったが学校の成績が非常に悪かった。高校を卒業したとき父親は息子に極東へ行く船の三等船室の片道切符をお祝いとして贈った。父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くこと。2つ目は父親も年をとり、10人の兄弟姉妹が居り一家の商売に役立つことを、旅行中に考えることだった。

全ては三浦海岸で拾った貝殻から

息子は1871年、ロンドンから独り船に乗り、インド、シャム、シンガポール系由し終点の横浜まで真っ直ぐやって来た。彼は、懐の5ポンド以外に何も持たなかった。当時の5ポンドは、およそ今日の5万円相当である。もちろん日本に知人もなく住む家もなかった。この時代に、日本にいた外国人は横浜・東京あたりで数百人にすぎなかった。

彼は三浦海岸に行き、壊れかけた無人小屋にもぐり込み数日を過ごした。毎日、漁師たちが波打ち際で砂を掘る姿を見て彼は不思議に思った。彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取るとその貝は大変美しかった。

こうした貝を細工したり加工すれば、ボタンやタバコ・ケースなど、美しい商品ができそうだと考えた。彼は、せっせと貝を拾い始め、貝を加工し父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せロンドンの町を売り歩いた。

当時のロンドンで、大変珍しがられ、飛ぶように売れたそうだ。やがて父親は手押し車の引き売りを辞め小さな商店を開くことができた。この商店が2階建てになり、次に3階建てになり、そして最初はロンドン下町イーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がら細工の商売は、どんどん発展した。

そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネを蓄えた。青年の名はマーカス・サミュエルでヘブライ語名がモルデカイであった。

サミュエルは1876年23歳となり横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類を英国へ輸出した。輸出だけでなく日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手に商圏を大きく広げた。

この時代に世界中のビジネスマンに一番話題が、石油だった。内燃機関が登場し、石油需要が急増しつつあった。ロックフェラーが石油王となったのも、この時代である。ロシア皇帝はシベリアで石油を探させた。彼は1892年ロシアから石油買付を手始めに石油業界に参入した。

貝がらで大成功を収めたサミュエルも、石油採掘に目をつけ1万ポンドを投資する事業計画を立てた。彼自身は石油に知識は何もなかったが、友人に相談しインドネシア辺りで石油が採掘できるかもと考え、インドネシアで石油を探させた。勘が良いのか、幸運だったか、石油を掘り当てた。インドネシアは、暖房に使う必要もなく、また暗くなってから活動する社会でなかったので、石油の販路は他に求めなければならなかった。

彼は「ライジング・サン石油株式会社」を設立し日本に石油を売り込み始めた。このころ日本では油で暖房したり、照明することは革命的であった。新しい時代の潮流に乗りこの商売も非常に成功した。

石油をインドネシアから日本まで2ガロン缶で運んだが、原油を運ぶと船を汚し、洗浄が大変である。火事も出やすいため、船会社は運搬を嫌がり、船賃がべらぼうに高かった。

サミュエルは造船技術者を招き、世界で初めてタンカー船を発案した。世界で初めてタンカー船を生み出し当時の世界で最大のタンカー船隊の持ち主となり、世界初「タンカー王」となる。

 サミュエルの新造船タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとるのは、1892年8月23日であった。(「ミュレックス」は「アッキ貝」の意)

彼は自分のタンカー一隻一隻に、日本の海岸で拾った貝の名前をつけた。後に彼はこのことに触れ、次のように書き残している。「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、決して忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた

1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは食糧・石油・兵器・軍需物質を日本軍に供給し助けた。

当時の貧しい日本政府は戦費調達も困難で、物を売るのは大変な冒険であり大国・清に日本は勝つと信じない限り不可能な賭けです。戦後、日本が清国から台湾を割譲され、台湾を領有すると、日本政府の求めに応じ台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら「アヘン公社」の経営に携わった。日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。日本の総督府はアヘンを吸うことを禁じても、かえって密売市場が栄え、治安が乱れると判断しアヘンを販売する公社を作り、徐々に中毒患者を減らす現実的施策をとった。

「横浜市電」の旧横浜電気鉄道を1902年に設立発起人もサミュエル商会です。日清戦争の軍事公債を4,300万円引受け、1902年には横浜市の水道公債を90万円購入、1903年には日露戦争の戦費公債、1907年には横浜市の築港公債を317,000ポンドも引き受けます。

サミュエルは、これら大きな功績により明治天皇から「勲一等旭日大綬章」を授けられる。

彼の石油事業が成功するほどに、英国人たちからユダヤ人が石油業界で君臨していることに反発が強まり、この会社を売らなければならなくなる。当時イギリスは世界一の大海軍を擁し、大艦隊にサミュエルが石油を供給していたからだ。サミュエルは、会社を売却に追い込まれ、条件を出した。その一つは少数株主といえども、必ず彼の血をひく者が、役員として会社に入ること。さらに、会社が続く限り、貝を商標とすることであった。常に自分の人生の足跡を刻みたかったからだ。この貝マークの石油会社こそ、日本の津々浦々でも見られる「シェル石油」である。

1897年サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し本社を横浜元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻り「シェル」と称したのだ。こうして横浜が世界企業「シェル石油会社」発祥の地となった。1907年オランダ「ロイヤル・ダッチ石油会社」と「シェル石油会社」が合併し「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。

 このイギリス・オランダ2社合併を推進したのが英国ロスチャイルド財閥です。この「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が英国の「ブリティッシュ・ペトロリアムBP」である。

サミュエルは英国に帰国すると巨大ビジネスを成功させた名士であった。1902年にはロンドン市長となる。ユダヤ人として5人目のロンドン市長である。彼は就任式に日本の林董駐英公使を招きパレードの馬車に同乗させた。この年1月30日に「日英同盟」が結ばれていたが他国の外交官を一人だけ同乗させたのは、実に異例の行動であった。この事実は、彼がいかに親日家だったか示している。ちなみに2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と林公使夫人が乗った。

*日英同盟は、戦前日本にとり最高の外交だった。6/17のブログ「日本を愛した外国人③」でも触れてますが、この同盟関係を破棄した外交政策が戦前日本の犯した最大の失敗である。

サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられ貴族に列した。その4年後には子爵となった。彼は「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対し次のように答えている。

中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。

*当時の欧米では投資先として中国大陸に対する方が、関心が強かった。今日でも欧米人は、日本より中国のほうが巨大な市場として中国の方に魅せられている。

その後ロンドンにサミュエルの寄付で「ベアステッド記念病院」が作られ、彼は慈善家としても知られるようになり1927年に74歳で生涯を閉じた。現在も「ロイヤル・ダッチ・シェル」はロスチャイルド系列企業群の中心である。

  
 Marcus Samuel, 1st Viscount Bearsted ベアステッド子爵の称号
0582018176.jpg サミュエルの家族
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サミュエル邸は森と湖に囲まれた古城でナショナルトラストにより公開されています