トミーと貴婦人の図『万延元年遣米使節図録』  「トミー・ポルカ」の楽譜表紙を飾るトミー肖像 
  幕末、兄弟でビールを酌み交す立石斧次郎(16)・全米を熱狂させたファースト・イケメン・サムライ 彼は大人気で全米の新聞記事         
 
 松平金次郎エドモンストン市長

幕末、勝海舟や福沢諭吉らも随行した1860(万延元)年の遣米使節団には、一人の愛すべきキャラクターがいた。人なつっこい笑顔で、使節団の乗るポーハタン号のマスコット的存在となった17歳の少年、愛称「トミー」である。「気立てのやさしく、アメリカ的なはしゃぎ屋の魂を持っている。新しい状況に適応する方法を知った若者で、大変な人気者」「この国で適当な妻を見つけて、その人と永久に幸せに暮したいので、日本に帰りたいとは思わない」とアメリカの新聞ニューヨーク・イラストレイテッド・ニュースとニューヨーク・ヘラルドに書かれます。他の日本人がしりごみする中で、ただ一人で蒸気機関車で機関士をやったり、消防士となりホースで放水したり、フィラデルフィアでは「ピアノの伴奏で日本の唄とアメリカの唄を歌って婦女子の喝采を浴びた」(フィラデルフィアインクワイヤラー)。渡米後、トミーの人気はアメリカ全土に広まり、幕末期のアメリカで最も有名な日本人となった。トミーは本名を立石斧次郎という。幕府からオランダ語通詞として使節団に加わっていた養父の立石得十郎が、「見習い通訳」として斧次郎を推挙したのが使節 団参加のきっかけだった。斧次郎の幼名が為八だったことから同行者が「ため」と呼んでいたが、米海軍士官たちにはこれが「トミー」と聞こえたようだ。
いつも快活に行動し、アメリカ人が相手でも気軽に話しかけ談笑するトミーは、あっという間に船内の人気者になった。彼は渡米以前、横浜運上所(税関)で外 国人や日本人商人を相手に雑務に従事しており、そこで、英語力のみならず社交性や交渉力を身につけていたのだろう。ちなみに、当時横浜を訪れた福沢諭吉が、斧次郎から英語の発音を習ったという逸話も残されている。

アメリカでのトミーは、行く先々で大歓迎を受けた。特に貴婦人の注目を大いに集め、トミーが泊まるホテルに膨大なラブレターが届けられ、舞踏会では彼が近づくと女性陣が息を飲んで静まりかえるほどだったという。
ニューヨーク・ブロードウェイのパレードで女性からもらったハンカチを群衆に向かって振ったり、記者に対し「僕もチョンマゲをやめ海軍士官学校に入り、 美しいヤンキー女性と結婚したいものだ」とリップサービスするなど、トミーの持ち前のユーモアが評判に拍車をかけた。その勢いは留まるところを知らず、彼を「お忍びで使節団に参加した日本のプリンス」とする一種の都市伝説まで生み出した。
使節団は、約2カ月の滞在ののち、ニューヨークを出港する。トミーにとっては生涯忘れることのできない体験であった。

ビールを酌み交わす姿を写された最初で最後のサムライ

1枚の写真がある。笑顔でビールを酌み交わす二人の侍。コップを手に持つ右側の人物がトミーこと立石斧次郎(当時は米田桂次郎と改名)、左側でビールを注ぐのが彼の兄・小花和重太郎です。時は下って1867(慶応3)年、将軍慶喜に従う彼らが、大坂城での写真だという。ちょんまげ姿の武士がビールを飲む様子を撮影した写真は現存する唯一のものであり、ビール文化史から見ても非常に貴重なショット。アメリカから帰国したトミーは、姓を母方の米田に改め、幕臣として活躍する。一時はアメリカ公使ハリス直々の指名で公使館通訳を務めた。 その後、歩兵差図役頭取勤方、いわゆる将軍親衛隊となる彼は、慶喜とともに大坂城入りし、ここでアメリカ公使が将軍に謁見する際の通訳という大役を果たしました。写真が撮影されたのは、ちょうどこの頃です。撮影されたビールはアメリカ製。トミーはアメリカへの渡航時や滞在中にアメリカ製ビールを飲んでおり、その味は郷愁を誘うものだった。1867(慶応3)年は江戸時代最後の年であり、同年10月には慶喜が天皇に大政奉還をします。そうした激動の時代に、兄と笑顔で酌み交わしたビールの味は、一時だけでも憂き世を忘れさせたでしょう。

アメリカでトミーポルカが作られ大ヒット

幕臣たちを襲った斜陽の影は、トミーの身にも差しかかる。慶喜に付き従い大坂から江戸に引き揚げたトミーは、幕臣として戊辰戦争に参戦した。今市(現・栃木県日光市)に進軍してくる官軍を、兄の重太郎とともに迎え撃つ。しかし奮戦むなしく兄は戦死しトミー自身も右腿を撃ち抜かれたものの辛くも九死に一生を得た。
維新後、長野桂次郎と改名したトミーに、再度アメリカを訪問する機会が訪れた。1871(明治4)年、欧米列強各国の視察と条約改正とを目的とした岩倉遣外使節団へ参加を新政府から要請された。
トミーは約10年ぶりに訪れたアメリカの地で、自らの名前が冠された歌の存在を知った。「トミー・ポルカ」と題された曲だ。その歌詞は以下のようなものだった。

通りがかった♪
人妻も娘も、思わず夢中で取り巻く♪
かわいい男、小さな男
その名はトミー、かしこいトミー、黄色いトミー
日本からやってきたサムライ・トミー

この曲は、海を渡ってきたサムライ使節団、およびトミーの人気ぶりを伝える曲として、幕府遣米使節団が帰国したのち全米で大ヒットし社交界の婦人たちに歌われ舞踏会で演奏されたという。
しかしトミーの2回目の渡米がアメリカ市民の間で話題になったという資料は残されていない。洗練された社交性を身につけていたトミーは、使節団内の薩長出身者からは「軽々しい人間」と白い眼で見られることが多く、派手な行動を控えたのかもしれない。そもそも南北戦争が終結したばかりのアメリカにとり、条約改正を掲げた岩倉遣外使節団は「招かれざる客」だった。10年前のような熱狂的な歓迎など望むべくもなかった。
その後ハワイ移民官を勤めたり、英語力を生かした仕事に従事したトミーは晩年、西伊豆の戸田村(現・静岡県沼津市戸田)で孫たちに囲まれ暮らした。戊辰戦争などの話はよくするものの、渡米時のこと「トミー・ポルカ」のことを話すことは全くなかったという。好々爺として周囲の人々に 愛されたトミーは、1917(大正6)年、75歳でこの世を去った。

 1867年、米国公使ファルケンバーグは国務長官宛てに「あのトミーという人気者の青年が通訳を務めた。あれだけアメリカびいきを剥き出しにした青年がこの重要な機会に出席したことは、日本の友好のあらわれではないかと受けとめた」と報告します。明治4年の岩倉使節団に英語力を買われて随行したときは、西洋マナーに無知な官軍出身の政府要人たちから、気軽に女性に声をかけるトミーの行動が煙たがれたようです。“出る杭は打たれる”状態でした。立石斧次郎が当時の合衆国で流行らせたものとして、社交場でナプキンなど紙で作った折り紙の鶴を扇子で蒼って楽しむ遊びが流行したそうです。小栗の毅然とした交渉姿勢と立石のユーモラスな言動はアメリカにおいて一大日本ブームを巻き起こしました。

開国まもない幕末ラスト・サムライ立石斧次郎(トミー)は、米国人に愛された最初の日本人であり、その成功の秘訣は英語以上に価値観の違いを超え打解けるスキル。彼は幕末と維新後も幕臣として忠義を尽くしました。米国人たちの人気を集めたのは茶目っ気ばかりで無いでしょう。アメリカ人たちは欧米の騎士道に通ずるサムライ・スピリッツを垣間でも見たのでしょう。

森鴎外、広瀬武夫、野村吉三郎、鈴木大拙、新渡戸稲造、野口英世、高峰譲吉など明治の日本人は欧米女性に愛され日本まで追いかけられたり結婚したりだ。鉄道技師松平忠厚は明治12年に米国で深窓の令嬢と結婚しコロラドに骨を埋めた。この人は明治16年にNYブルックリン吊橋の設計に加わり、その後パシフィック鉄道建設など西部開拓に身命をそそぎ合衆国の近代化とインフラ整備に貢献した。ご次男・金次郎1927年メリーランド州エドモンストンで全米初の日系人市長となり1期で退任しペンシルバニアに転居しますが大戦中1943年エドモンストン市民から招かれ日系人 排斥の世相に抗い再び市長に就任します。今もメリーランドやコロラド周辺に御子孫がご健在です。