

名門リヴィエラ・カントリー・クラブでエルメスの長靴を履いた西
アカデミー主演女優賞の大スターです

人気俳優ダグラス・フェアバンクスと太平洋の女王と呼ばれた豪華客船秩父丸船上にて

ロス五輪で米国から武子夫人宛てへの手紙、「俺はロスでもててるよ」と書かれてる
ハリウッド女優から毎日デートに誘われたそうです
西竹一さんは硫黄島での戦死を惜しむあまり多くの伝説が伝わる。1つがJOC(日本オリンピック委員会)公式サイトのコラムで紹介される硫黄島で西大佐へ米軍投降勧告放送である。一言でありえない。交戦国の米国に人事など軍事機密が漏れる道理が無い。また軍で冷遇され最前線に派遣されたという人がいる。嘘だと言いたい。特権階級である茶道家元・裏千家15代千宗室さんも特攻隊員として前線基地に派遣された(出撃前に終戦)。皇族の方々も第二次大戦で3名が戦死なされた。例えば朝香宮正彦さまは南太平洋クェゼリン島玉砕で戦死なされた。国民の生命財産を脅かし国家の存亡危機といえる原発事故を起こしても本社でぬくぬくしたエリート社員や官僚に原発学者の現代と違います。国家存亡危機において特権などありえない。それが昔の日本です。昭和天皇の有名なお言葉があります。皇族で最初の戦死者が出たとき「やっと、これで国民と同じだね」
西竹一さんは陸軍士官学校在学当時から休日にモーターボートやバイクはハーレーダビットソン、愛車はリバティーのジープやクライスラーやリンカーンのオープンカーを乗り回された。ここまでなら父が外交官の良家の放蕩息子ですが、違うのは大正という平和な時代に進路を変更し府立一中(現在の日比谷高校)を中退し陸軍幼年学校から士官学校と進む。叩上げの職業軍人では珍しく頭を丸刈りにせず髪は七三で各国の在日大使館の武官や外交官を自宅に招く国際人であった。
彼はオリンピック出場を目指し、世界最高の名馬を求めてイタリアまで6ヶ月の休暇を貰い旅立っていく。西は陸路やインド洋経由の道を選ばず、横浜港から客船で一路ロサンジェルスに向かう。2年後のロス・オリンピックの会場の下見も兼ねてのことだ。ロスから、彼は大陸横断鉄道でニューヨークに出て、そこから大西洋航路の船でヨーロッパに渡った。船中、彼は生涯の親友となるハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスとメリー・ピックフォード夫妻と知り合った。二人はたちまち意気が合い、エレガントなフランス航路の一等船客用甲板を借り切り、素っ裸で二人してロープを張り、当時の人気映画ターザンごっこで遊んだという…大西洋の真っ只中。後に彼から日本へ招かれたダグ夫妻は東京麻布の西邸に泊まり込み毎晩銀座で一大酔虎伝を繰り広げた。
ロサンジェルス・オリンピックの時、馬術競技チームは数ヶ月前にロス入りして、リヴィエラ・カントリー・クラブのポロ・グラウンドで練習を開始した。もっともそれは午前中のこと。バロン西は、ロスでロールスロイスを買い入れ、親友ダグ夫妻やハリウッドや著名人のパーティ等に招かれ…選手宿舎に帰ることはまずなかったそうです。ハリウッド名物のワイルド・パーティで彼の自由闊達な明るい社交性は、常に華やかな主人公だった。ロスでのエピソード。ハリウッドのパーティで当夜一番の美人女優を賭け、男共がナミナミと注がれた大杯を飲み干すコンテストになった。誰もが尻込みするなかで、既にしたたか酔ったバロン西が挑戦。一気に飲み干し大喝采は良かったが、そのままドターンとひっくり返ったという。
オリンピックの栄光に輝く優勝後、選手団の帰りの客船がサンフランシスコ港で2泊する。バロン西はシスコからロスまで飛行機でとんぼ返りで出発前夜のお別れパーティの続きをしたという。ハリウッドだけでなくロスの政財界人たちが彼との別れを惜しんだそうです。
俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード夫妻を東京まで招き、夫妻から送られたモーターボートで夜間東京湾をクルーズされた。イタリア産の悍馬ウラヌスを乗りこなし、暇があれば麻布笄町(こうがいちょう、現港区西麻布二~四丁目、および南青山の一部)の自宅の庭で、自動車を障害競技の練習に使ったスピードにのめり込んだ。
さりげなくエルメスの馬具にエルメス特注ブーツを履き、拍車はフランスや英国の特注品のダンディズムです。大会前に練習に通ったロス郊外の乗馬クラブで出会うハリウッドスターや名士たちの前で物怖じせぬ堂々とした態度と流暢な英会話を話す社交的な人柄は人気を集め、カリフォルニアで多くの人と友人となられた。
陸軍将校の軍帽を西が自分好みに勝手に手を入れデザインした西式軍帽を被った。横に大きく張り出したトップ、短く垂直なヒサシ等、むしろこえは、ドイツ風のデザインである。
軍帽も西は総てヨーロッパで特別メイドしたという。ハイ・カラー、短くて胴を極端にくびった上衣。そして特別デザインの広がった乗馬ズボン。勿論エルメスの特別ブーツ。私服も総て外国でオーダーしたものだった。後年第一線に出勤するまで、彼は坊主頭に決してしなかった。当時の流行であるヴァレンチノ風にぴったりとなぜつけていた。オリンピック馬術団でロサンジェルスに着けば全員のためパーティー用に自費でタキシードを注文された。
東京でも彼の交友関係で常に外国将校団や外交官がいた。毎夜銀座のバー、赤坂、新橋の芸者パーティ。時に親友の毛利男爵や伊達男爵といった気鋭の若手将校たちと軍服で横浜本牧まで遠征し飲み遊んだ。
そして深夜、銀座・築地川に留めたジョンソン社製の高速ボート。ウラヌスⅠ世号、Ⅱ世号に銀座ホステスさんたちを乗せ酔っ払い、ボートをすっ飛ばす。
二次会、三次会は麻布の自宅のホーム・パーティで全員ぶっ倒れるまで欧米式ワイルドパーティ。
硫黄島に渡る前に西は昭和19年8月馬事公苑を訪れている。老いて馬事公苑の一角で余生を送るウラヌス号に最後の別れを告げるため。ウラヌス号は、遠くに聴こえる微かな足音で、西竹一が来たことを感じ取り、嬉しそうに前掻きして喜びをあらわしたという。ウラヌス号に言葉は言えない、だが狂気した。馬首を竹一の腕にこすりつけ、その腕に何遍も愛咬をくりかえした。馬が人間に示す最高の愛情表現です。西はウラヌス号のたてがみの一部を切り取りポケットにしまい、木更津から爆撃機で戦地硫黄島に飛んだ。硫黄島へ向う際に覚悟を決めた西中佐も栗林中将と同じく妻に「今度という今度は戻れないかもしれない」と言い残した。
西は戦車隊第26連隊長として二度と帰ってくることがない硫黄島守備隊に転属させられてしまう。ここでも数多くの証言が残っている。彼は部下の応召兵の中で妻帯者、家族持ちの者たちの一部をリストからはずした。死が待つ島に家族の悲しむ部下を連れて行きたくないと転属させた者も数多くあった。彼の戦死後も日米で語り継がれた数多くの逸話は愛すべき人柄と部下思いの行動由縁でしょう。西は、エルメスの長靴に拍車を付け、手に特別製の思い出のロス大会の時の鞭を持ち硫黄島に到着する。戦車隊隊長でありながら、スタイルは正に誇り高き騎兵将校。これは全く偶然にアメリカの戦車軍団を率いたパットン将軍と同じです。
数万のアメリカ軍が硫黄島に上陸を開始した。西は、700数十名の部下のうち残り少ない生き残りを集め最後の最後まで戦うことを決意した。「おい簡単に死んだりするなよ」これは前線に向かう部下に必ず言っていた西の言葉だという。お洒落でキザで一流趣味、欧州でハリウッドで東京銀座で赤坂で、思い切り派手な青年時代を思う存分送ったバロン西の真骨頂は戦場でも発揮される。
天性の明るい性格の西中佐は米軍上陸前、硫黄島に一頭だけ残された馬に跨ったり、釣りに興じたという。しかし米軍上陸後の戦いぶりは、己の肉体をも武器にした壮絶なものだった。修理不能の戦車を砂に埋め、砲台だけを見せ巧みに隠し利用した戦術は、西中佐の軍人としての能力の高さを証している。自身は米軍が使用した火炎放射器の火で顔半分を焼かれ、総員1000名の連隊も60余名となって尚、栗林中将のいる兵団本部と合流しようと壕を出た所、水際で散弾に倒れたと記録される。
彼はあの栄光のロス大会で共に駆け抜けた愛馬ウラヌスのたてがみを胸に収め、思い切りお洒落に最後のグルーミングをして、たった一本残ったスコッチ・ウイスキーをほの暗い洞窟で部下たちと共に最後のトースト。
敵陣めがけて最後の突撃をする。待ち構えていた米軍の一斉射撃の前に彼は脚部を撃たれて倒れ、続く部下に上半身を起こしてもらい、オイストルで自決したという。西が硫黄島で自決した6日後、ウラヌス、老衰で死亡…。
西竹一中佐は昭和20年3月22日頃、壮絶な戦闘の末に戦死なされた。一分一秒でも米軍を食い止めれば米軍の本土空襲から日本国民を救えると最後まで闘われた。病気で陸軍獣医学校の病馬廠に収容されたウラヌス号も3月末に西中佐の跡を慕い天に駆け昇ったのである。きっと西さんと共にロスの蒼い空へ駆けて行く…。西竹一は青山霊園の西家の墓に眠ります。しかし戦後、日本政府は遺骨収集を怠り西の遺骨も他の兵士と同じく不明のままです。

愛車クライスラーを飛越する姿

親しい外国人たちと右下は奥様です
32ロスオリンピックは満州事変(1931年8月)直後で戦争拡大する日本に対し反日感情が高まっていた。当時、閉会式直前にメインスタジアムで行われる馬術大賞典障害飛越競技(Grand Prix des Nations グランプリ・デ・ナシオン)は騎士道精神の象徴であり欧米人にとり“大会最高の華型競技”です。この競技の勝者こそ真のオリンピック勝者として欧米社会で最高の敬意が払われます。オリンピックスタジアム(現在のロサンゼルス・メモリアル・コロシアム) で優勝候補の米国チェンバレンを抜き、優勝した西竹一は流暢な英語で挨拶し礼儀正しく優美な姿はアメリカ人たちの感動を呼び会場はスタンディングオベーションの嵐で「バロン(男爵)ニシ!」コールがこだましたそうです。
スウェーデン選手団は自分たちが敗れたことを忘れ米国によくぞ勝ってくれたと大喜びで祝い、日本選手団を胴上げした。メキシコ選手団も同様に米国を負かしてくれたと祝ったそうです。
オリンピック後、帰国の日までカリフォルニアで多くの人と交わり、ロス市長は彼に名誉市民称号を贈り、ロス郊外に建設する競馬場の起工式に招き最上段に坐らせ終身名誉会員の推薦状と感謝状が贈られるなど歓迎攻めにあった。そしてバロン西はロスで永い記憶に留まる日本人となりました。ロサンゼルスで各国の馬術選手はリヴィエラ・カントリー・クラブで練習したそうですが、その時、西竹一中尉に非常に可愛がられたひとりのアメリカ人青年がいました。当時19歳のサイ・バートレット(Sy Bartlett)でした。サイ・バートレットは戦争中グアムの315爆撃団に所属する空軍大佐としてB29に搭乗した。そして日本爆撃の命令を受けた。バロン西の祖国を爆撃することに対し非常に悲しんだそうです。ところが彼の乗機は被弾し帰途、硫黄島に不時着し危うく一命をとりとめた。むろんバロン西が、この島で戦死していたことなど知る由もなかった。
戦争が終わり彼は映画界に入りハリウッドで名の知れた脚本家、プロデューサーとなった。洋画ファンなら当時の映画のタイトルバックに数多く彼の名を見つけることができます。若き日の憧れバロン西の消息を求め彼は昭和40年10月の来日で西邸を訪問します。一緒に来日したケーリー・グラントを伴い西武子未亡人を麻布に訪れ初めて戦死を知り大きな声を上げ落涙されたそうです。
彼は戦死者が祀られる靖国神社を訪れ尊敬するバロン西のため慰霊祭を開いた。「ロサンゼルスに帰りましたら、スペンサー・トレーシー、ロバート・モンゴメリー及びカントリークラブでの貴方の旧友達にこの報告をするつもりです。我が友よ安らかに」と涙とともに弔辞を捧げた。
オリンピックの行われたコロシアム入口には優勝者名を刻む銅のプレートが嵌め込まれています。そこには今も「Takeichi Nishi Japan」の名が残ります。ロス市内の目抜き通り8階建てロサンジェルス・アスレティック・クラブは創立100年を越す名門クラブです。ここのオリンピック・ルーム正面に、バロン西がオープンカー飛越の写真が保存展示されます。そして彼の数々の物語や伝説はハリウッドの友人たちに永く語り継がれ、映画『硫黄島からの手紙』でクリント・イーストウッド監督は西中佐を誇り高き愛すべき日本人として描きます。
*学生時代に歴史物を読み漁り古い名画やサイレントまで見た。私が知る中でハリウッドのトップ女優たちから追いかけられた日本人は…西さん以外では草創期ハリウッドでトップスターとなった早川雪洲さんだ。この人はハリウッドで古城のような大豪邸を建て毎晩パーティー三昧。日本映画史でピカ一の俳優さんだ。ハリウッド女優との間にお子さんも何人か居た。第二次大戦中はパリに留まり反ナチ・レジスタンス活動までした。欧州女性にも随分ともてたそうだ。