「今日の日中はひんやりしそうです」という天気予報士のセリフを聞いて、ホッとする。

寒いなら寒いで外に出たくないが、体力全部むしり取られるような暑さはもう御免である。

 

先週の金曜日、両親の床屋に付き添った。

駅前の格安な床屋である。

父はひと月に1度ほどマメに通っている。

ポヤポヤと生えている程度なのだから、通う間隔をもう少しあけてもいいのではないかと思うが、短いなら短いなりに、少ないなら少ないなりに、耳回りのボサボサ感が気になるらしい。

カットだけではなく、シェービングや洗髪をしてもらったりすると、気持ちもさっぱりするようだ。

母はここのところカットだけなので、前髪がほぼ真っ白である。

自分の目に見える部分がことさら白いので、黒い布帽子をかぶって隠している。

「誰に会うわけでもないんだから、別にいいんだけど」と言いつつ、内心、気にしているようだ。

染めようかしら、染めようかしら、と言いつつも、最近の美容院はどこも予約制なのが億劫らしく、結局は父と同じ床屋でカットだけしてもらうことになる。

ふたりが切ってもらっている間、わたしは後ろに座って待っている。

「付き添い用」の席というのがあるのだ。

ぼんやりとした付き添いなので、なにぶん気が利かない。

スタッフに、「終わりましたよ」と促されて初めて気がついて迎えに行く。

 

父母ともに相変わらず、杖をつかない。

人目をはばかっているのだ。

杖をついて歩いてくれたほうが、よほど周囲に危なっかしい思いをさせないで済むと思うのだが、「年寄りくさい」とかなんとか言って、頑として使わない。

肩を支えようとすると、それも拒む。

来月90歳になるのに、”年寄りくさい”ことに抵抗があるというその心がよくわからない。

その年になってみないとわからないのかもしれない。

 

床屋の前は横断歩道である。

青に変わってすぐに渡り始めないと間に合わない。

もうすぐ渡り切るというところで赤に変わる。

高齢者がポツポツと覚束ない足取りで渡っているのに発進する車はさすがにいないが、ドライバーが車中で舌打ちしているのではないかと思うと、気が気ではない。

右目で父の歩みを捉えつつ、左目で母の位置を確認しながら合わせて歩く。

気持ちがせいているので、彼らの動きがことさらもどかしく感じられる。

小さい駅前のこの短い横断歩道が、これほど長く感じられる時間はない。

 

カットを終えると、駅前のカフェで一服するのが定番のコースとなっている。

家にいると煮詰まってしまい、つまらないことでゴタゴタが起きる。

例えば父のもの忘れを母がなじって声を荒らげ、部屋の空気が殺伐とするというような……。

もの忘れをしている人が、もの忘れをしている人をなじるというのは、滑稽を通り越して苛立ちさえ覚える。

そして言わずもがなのひとことをつい口走ってしまい、こちらも後味の悪い思いをする。

しかし、外では誰しもお行儀や愛想も良くなる。

気持ちの上でも余裕ができる。

おいしいものを食べてひと息つける。

離れて住んでいると彼らの安否について不安になることもあるが、ゆったりと座っている姿を目の当たりにできていると、その間だけでもとりあえず安心である。

 

翌土曜日は「介護者のつどい」だった。

お世話になっている地域包括支援センター主催である。

帰り際に、担当のケアマネさんがちょうど訪問を終えてもどってきたところに出くわした。

少し立ち話をする。

敢えて約束をしたわけでもなく、ただ出くわしたというだけで、少し立ち話ができる顔見知りの関係というのは、当たり前のようでいて、実は得難い。

坂の多い町である。

電動自転車をしこしここいで、1か所訪問するのにもひと苦労のようだ。

彼女は今年いっぱいで退職される。

両親が要支援・要介護の認定を受けてから丸2年、そうしょっちゅう連絡しあうというのではなかったが、何かあった時には相談できる存在は大きかった。

もちろん後任に引き継いでくれるらしいが、関係性の作り直しは緊張する。

それこそわたしにとっての「杖」を失ってしまうようで心もとない。