実家に引っ越してきてほぼ3週間。
昨年から、自宅と実家を往復していたので、違和感はない。
目覚めたときに、「今日はどっちの家にいるんだったっけ」と思うこともない。
ひとり暮らしが懐かしく思い出されるのではないかと予想していたが、意外なことに、そんなこともない。
むしろ、母の安否確認が不要になったこと、本や洋服などが、あっちの家とこっちの家に分散して不自由だったのが、1か所になってむしろ便利になったことは大きい。
確かに、コンビニが歩いて1分というわけにもいかなくなり、図書館や区役所は遠くなり、かかりつけのクリニックもそのままなので、いいことばかりではない。
それでも敢えて、不便なところには意識を向けないようにしているような気がしないでもない。
いったん懐かしみ始めると、ズドンと落ち込むのではないかという警戒心があるのだ。
「さっきも言ったよね!」「何回も言ったよね」「もお~、どこにしまっちゃったのよ」などという母とのやりとりは、相変わらず。
むしろ同居したことで増えた。
価値観の違いからくる言い合いもある。
「いつまでもとっておかないで、捨てて捨てて!」という場面があるかと思えば、「なんで捨てちゃったのよ!」という場面もあり。
それでも、「チューリップが咲いたわ」などといううれしそうな声が庭先から聞こえると、先ほどのとんがり気分が和んだりもする。
「ああ、デイサービスに行ってて欲しい!」とあれほど思ったのに、ちょっと帰りが遅いと「なにかあったのかしら」とざわざわする。
その”ざわざわ感”は、幼児の時、母親の帰りが遅い時に感じた”ざわざわ”と同じほど強烈である。
無事にデイから帰って来ると、先ほどのざわざわ感はあとかたもなく消失するのだが、帰るなり「やっぱり家が一番いいわ!」などと言われると、今度は疚しい気持ちが湧き上がる。
朝、デイのお迎えの時間よりも30分以上も前からリュックを背負い、玄関の三和土にちょこんと座ってお迎えを待ち構えている姿を見ると、いとおしいような、疚しいような気分がマックスになる。
デイサービスの連絡帖に、「お仲間とトランプやゲームをして楽しそうだった」などと書いてあるとホッとするが、本人にしてみればむしろ、1日中座りっきりでお尻が痛いのだそうで、これは事業所側が都合よく見立てているのだろうか? などと、本人との温度差を感じることもある。
それでも、トランプで七並べをするたびに、「わたしが勝った」のだそうで、その真偽はともかく、それなりに楽しんでいるようではある。