諸外国で普通のことでも、性教育をタブー視し続ける日本社会で、SDGsの理念に沿ってみても、改めて教える側が学び直す必要があると感じたりする。

 

特に、性教育=はずかしいこと・秘めたること、というつまらないことではなく、性教育=人間が人間を大切にしあう・幸せになりあうための教育として、SDGsの出発点(そのように理解していない、または、理解したくない方も少なくないが…)である人権、ダイバーシティ&インクルージョン、ニコマコス倫理学でも出てくる倫理学を交えた愛や肉体対象としての性欲の違いなど、性器や性交渉の話を超えた人間を学ぶことが大事なのではないかと思ったりする。

 

功罪両面で議論のある道徳だと、場合によっては「かくあるべし」という画一化・超法規的な同調圧力を意味しかねないので、国・政府・自治体・民間企業・学校など広く共通に進めるSDGsの観点からも、道徳より多様性ある中で何をどう見据えていくと良いかを考えてみる倫理について、小学生や中学生といった小さな大人たちよりも、学び合いだと思うが「教える側」に立つ大きな大人たちが、改めて学びなおす必要があるのではないかと、パパ学校にて性教育の絵本で学びあいながら感じたりした。

 

ステレオタイプや画一化・偏見・押しつけ・決めつけなどは、経済効率は抜群に良さそうだなぁと、監査指導をしていて特に感じたりする。(私は悪しき監査対応での「社内冤罪」((C)戸村智憲)を避けるよう、監査セミナーなどでもSDGsや人権救済(一形態として公益通報者保護制度なども)や多角的なお話しを織り交ぜるようにしている)

 

だって、相手に寄り添い、監査なら証拠・証跡を丁寧にひとつひとつ見つめていくより、画一的に押し付け決めつけて、お医者さんでいうなら頭が痛い、はい、頭痛だからこの頭痛薬飲め、という流れ作業をすれば、脳梗塞やら難病やらはボロボロ見落としたとしても、たくさんの患者さんを「診察」してこなせるのではないだろうか。

 

しかし、犯罪で言えば冤罪、医療なら医療過誤や見落としなどで、確率的に見たり絶対数で見たりして少なかったとしても、冤罪を生んだりや生命が失われやすい対応になったりしかねないように思われる。

 

愛情のあり方も性器の形も身長もさまざまな中で、画一的にかくあるべし、ではなかなか対応が難しいようにも思われ、性教育を人間を対象とする幸せになりあうための学びとした際には、猜疑心ではなく懐疑心でいろんな角度からいろんな学びをあわせて対応していくことを、まず、指導側になる大きな大人から学び直す必要があるように感じたりする。