吉永小百合さんが主演の映画

樺太からの引き揚げで、苦労して息子を育てるという映画です
私の祖父は 小樽で産まれて育ちました
就職先は パラマウント
そう、映画配給の会社でした
映画館を廻る日々で
祖母と知り合い、恋愛結婚しました
その頃、樺太は 景気が良く
豊原で一旗挙げようと引っ越す人がたくさんいました
昭和9年 祖父は 興行師として独り立ちし、
樺太へ家族で渡りました
小樽の祖母の実家のみんなが反対するなか、
祖父は、祖母と、6歳の母、3歳の叔母を連れ
樺太へと移住しました
最初に暮らした 真岡で、末の叔母が生まれ
その後、豊原に移り住み
とても大きな家での暮らしが始まりました
そして戦後
ロシアの軍が 豊原にもきていて
大きな家には 将校たちが住むようになりました
祖母と母たち三姉妹は、一番位の上の将校夫妻にとても気に入られ
祖母は、その将校から オカサン(お母さん)と呼ばれ
軍から支給されるものをもらい、暮らしにさほどの苦労はなかったそう。
母は、その将校の本名なんて知らない。
でも サーシカ と呼んでいたこと。
本当に優しい人だったこと
そして オカサン ホッカイドーハジハジネ
と、北海道はロシアが占領することになるだろうと話したと言っていて
だから北海道に帰るな、ここにいて
みんなで暮らそう
そしたら 暮らしは保障するから!
と、引き揚げの準備をしていた祖父母を説得していたそうだ。
でも 祖父は、
いや、北海道に戻る。この家は、サーシカに任せるから好きにするといい
と言って 町内の人たちを先に引き揚げさせ
今でいう町内会長だった祖父は、一番最後に引き揚げる
と言って 近所の人たちを見送った
さぁ、次は自分達の番 という前の日
サーシカが 明日はダメ と言ったという
絶対にダメだと譲らなかったサーシカに負けて
他の人に譲り
母は、父さんはなんてお人好しなんだ!と思った と話していた
が
乗るはずだった船は
沈没した。
魚雷攻撃にあったのか
それとも 仕掛けてあったものにぶつかったのか
サーシカは、何かを知っていたのか
今となってはわからない
でも 母たちは、そのあと 引き揚げ船に乗り、
無事に小樽まで帰ってくる事が出来た
祖母は、この時すでに結核に蝕まれていて
引き揚げから 一年たたず
昭和23年に
亡くなった
引き揚げは、とても過酷だったと
祖母の死で、そう思うのです
引き揚げ と聞くと 母から聞いたこの話を
いつも思い出すのです。