【無念の死・名将*小嶺忠敏】 | 【かほり放送局】

『全国高校サッカー選手権に掛けた人生』

第100回全国高校サッカー選手権のベンチ入できなかった。

国見高を率い全国制覇6回小嶺忠敏さんが7日午前4時ごろ、長崎県内で亡くなった。76歳だった。

親しい関係者によると、小嶺さんは数年前から、肝臓など内臓を患い、持病の悪化もあって、

闘病を続けていたという。 ダンプ愛称でどこまでも突き進む・・・

国見高を率いて第65回大会から21年連続出場する間に戦後最多タイとなる

6度の優勝に導いたほか、準優勝3度。ベスト4を逃したのは9大会しかない。  

国見がその憎らしいほどの強さを誇っていたころ、全国の指導者たちが口にしていたのは

「打倒国見、打倒小嶺」だった。

時代も変わり、かつて「鬼」と形容もされたスパルタ指導はなくなったが、国見時代同様、

自費で購入したマイクロバスで遠征にも出かけて場数を踏ませ成長させた。
すべてをサッカーに注ぐ情熱は変わらなかった。人生のすべてをささげる熱血指導

小嶺忠敏(こみね・ただとし)1945年(昭20)6月24日、長崎県南島原市(旧堂崎村)生まれ。

島原商でバレーボールからサッカーに転向。大商大を卒業し68年、赴任した

島原商高のサッカー部監督に就任。島原商業1回(帝京)と同時優勝

技術だけでなく礼儀や身だしなみなど人間教育を重視し、

厳しくも温かい指導で高校サッカー界をけん引。

選手の個性を伸ばす指導サッカー73年度大会から11年連続で選手権に導くなど一時代を築いた。

84年に国見高に移ると同校を06年度大会まで21年連続で全国高校サッカー選手権出場に導き、

戦後最多の全国選手優勝6回を記録。00年4月に国見高の校長に就任し、同時に総監督となった。

全国選手06年3月に国見の校長を定年退職後も、総監督として指揮した。

07年1月9日に総監督を辞任、同年11月、長崎総合科学大学情報学部情報経営学科特任教授および

長崎総合科学大学付属高等学校サッカー部総監督に就任。

11年1月から長崎総合科学大学付属高サッカー部の指導も開始した。

15年9月から長崎総合科学大学サッカー部総監督と同付属高サッカー部監督に就任した。

サッカー部監督として77年には母校を全国高校総体優勝に導き、84年から国見高を率いて

選手権の監督通算勝利数(首都圏開催の76年度以降)は1位の73勝(島原商8勝、国見65勝)。 

全国選手88年に県民栄誉賞を受賞

07年1月9日に総監督を辞任、夏の参院選長崎県選挙区に自民党公認で出馬も落選。

 長崎県サッカー連盟会長をこの時お辞めになりました。『まだ、サッカーにかかわりたいから』

長崎県サッカー連盟は長年副会長のみでした。

V・ファーレン長崎では2006年より約5年間代表取締役社長を務められました

長崎県サッカー連盟会長 現在は長崎総合科学大教授で、

V・ファーレン長崎などで監督を務めた高木琢也さん、現役引退したFW大久保嘉人氏をはじめ、

平山相太氏、永井秀樹氏など多くの教え子をJリーグや日本代表に送り出した。

国見の黄金時代に「今、欲しいものは何ですか?」と聞いたことがある。

答えは「30年若返る薬だな」だった。大きな笑い声が思い出される。

一分一秒をむだにせず、最後までサッカーのために尽くした生涯だった。

長崎総科大付は「まだ今朝、お亡くなりになったと連絡をいただいたばかりで…」と衝撃を受けた様子。同校によると、この日朝に、親族からサッカー部関係者へ亡くなった知らせがあり、その後、校長、教頭らに伝えられたという。

名言・口癖

『勝って兜の緒を締めよ』『鍛錬は千日の業であり、勝負は一瞬の業である』

『実るほど頭を垂れる稲穂かな』やっぱり、天狗にならないように、どんな時でも謙虚であれと。

⦅じっちゃ~じっちゃん 涙涙名誉を嫌い好き克ってな人生⦆何も考えず安らかに眠れ

希望の星だったヨ~サッカーが好きになれたのも 『小嶺魂は、永遠に続く』