【新宿二丁目がゲイの街】 | 【かほり放送局】

『世界有数のゲイタウン』

新宿二丁目街になったのはいつからか?』

この辺りはもともと風俗街で、1958年の売春防止法以降、

赤線廃止から4年経過した頃

空家になった所にゲイバーが移転してきて、

1960年代にはゲイタウンとしての歴史がスタートしたそう。

『新宿初のゲイバー』

"新宿初のゲイバーは、新宿角筈の「夜曲」

(角筈1丁目,二幸《現アルタ》裏)であり、

二丁目初は1951年(昭和26年)、

要町界隈(現三丁目)にできた「イプセン」といわれる"

美輪明宏自身も、1976年新宿五丁目の靖国通り沿いの

瀟洒な白いビル、Qフラットに「クラブ巴里」を出店

前田さんは、昭和26年(1951年)(アルタが立つ前)

あの付近で純喫茶経営新宿三丁目でゲイバーに変え『蘭屋』経営

昭和29年(1954)には新宿に進出

その後昭和33年(1958)新宿二丁目に店を構えた。

これが新宿二丁目にゲイバーができた最初である。

その後も仲間に声をかけて、この土地に店を開くように勧めた。

新宿二丁目の開拓者であり、新宿のゲイの歴史と共に

歩んできた人といっても過言ではないのだ。

1997年2月に亡くなられた前田さん(享年73歳)

1953年(昭和28年)に夕刊紙で「男色居酒屋」として取り上げ

られてから知る人が増えた""この頃のゲイバーの分類は

現在と幾分違っており、女装バーの占める割合が高かったとされ

"1950年代には要町(現・新宿3丁目)、千鳥街(新宿御苑近く)、

花園街(現・歌舞伎町ゴールデン街)界隈にゲイバーが

集まった飲み屋街があった"

1962年(昭和37年)当時の千鳥街    

戦後のこの世界の変遷をつぶさに見てきた。

数10年間は、同性愛、ゲイは、淫靡で反社会的なもの、

アンダーグラウンドなものとして、偏見を持たれていました"

"この頃からゲイの間で「二丁目」「オ二チョ」といえば、

ゲイ・タウンとしての新宿二丁目を指すようになった"

以前はおよそ100m四方の範囲に400軒ほどのゲイバーやゲイ

関連のお店などがあったそうだが、不況の影響もあり、

現在は300軒ほどになったという。

"ゲイバーの多くは入口のドアに会員制という

プレートを貼ることにより女性客の入店を断る。

通常のゲイバーや売り専バー、イベントを行うクラブ、

レズビアンを対象にしたバーも、ゲイグッズを扱う

ゲイショップ、同性同士で利用可能なホテルなどが占める"

新宿通りから靖国通りに抜ける、およそ240m弱

「新宿二丁目仲通り(なかどおり)」最寄り駅は、

都営地下鉄新宿線、東京メトロ丸ノ内線御苑駅、

東京メトロ副都心線の新宿三丁目駅