悪は存在しないわけがない | ゾンビは走っちゃダメ!

悪は存在しないわけがない

 『君たちはどう生きるか』とか『悪は存在しない』とか、最近の映画は「それをタイトルにしていいの?」というやつが多い。テーマそのままやんけ。ゾンビ映画も『君たちは死んだ後どうするか』とか『ゾンビは走らない』とかにしないといけないのか?

(以下、『悪は存在しない』のネタバレになります)

 巷で賛否両論の『悪は存在しない』のラストだが、唐突に殺人が起こるのは芸術映画では時々あり得る。ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』も、『ゴールキーパーの不安』の監督だから、主人公の清掃員はきっと人を殺すんだろうなと思って観ていたら、上映終了後は「あれー、誰も殺さないんだ」と呆気に取られたもんだ。
 だから『悪は存在しない』で、自然豊かな村に暮らす巧が東京から開発のために来た高橋を殺してもいいのだけど、そこを殺した意味はどうなのだろう? 鹿が象徴する自然と対峙した故の行動だとしても、自然側からしたら巧も高橋も巧の娘の花も同じような存在じゃないのだろうか。高橋は自然に害を与えるけど巧は自然とのバランスを考えているといっても、住民説明会での発言にあったように「それはそっちが勝手に考えた基準だろ」じゃないのかな。山ワサビには人間に食べられても何のメリットもない。巧が高橋を殺してみても、「肉屋を襲撃するヴィーガン」とか「絵画を傷つけようとする環境活動家」みたいな的外れな行動なのでは? 一番自然に優しいことは、人類が早くいなくなることなのだから。
 無論、監督はそんなことは百も承知で、タイトルを『悪は存在しない』としたのだろう。逆説に捉えれば「人はすこぶる悪である」ということだ。是枝裕和監督が善意を基に作品を組み立てているのに対して、濱口竜介監督の作品には根底に悪意がある。デビルマンが言うところの「地獄へおちろ、人間ども」である。