それは九月だった。一風堂「すみれ September Love」 | よねともが気ままに思うブログ

よねともが気ままに思うブログ

よねともが思うことを綴るブログです。
好きな音楽をただ紹介しています。

本日は一風堂「すみれ September Love」(1982年リリース) です。




一風堂は土屋昌巳さん(ギター・ボーカル) を中心として1979年に結成されたロックバンドでした。この「一風堂」は当時、東京・渋谷にあった同名のディスカウントストアから拝借したもので、人気のラーメン屋の「一風堂」は、バンドの「一風堂」のファンだった創業者がさらに拝借したものです。


一風堂。

1980年にアルバムをリリースするも、ベースが相次いで脱退したこともあり、メンバーは土屋さん、見岳章さん(キーボード・バイオリン)藤井章司さん(ドラム) の3人構成になってしまい、ライブ活動が出来なくなってしまいます。しかしながら土屋さんの制作意欲は高まっており、1981年にはアルバム『RADIO FANTASY』をリリースします。このアルバムではコピーライターで作詞家としても活動している糸井重里さんが作詞に入ったこと、パーカッション奏者の仙波清彦さんが参加して民族音楽のテイストを入れたロックに仕上がったことなどもあり、傑作アルバムに仕上がりました。また、土屋さんと見岳さんがシンセサイザーを積極的に活用したこともあり、その後のテクノ・ロック路線に繋がる方向性も示すことになります。しかし、アルバムリリース後に直ぐ、土屋さんは矢野顕子さんのライブツアーにギタリストで参加することになったほか、土屋さんと見岳さんの2人で坂本龍一さんのソロ・アルバム『左うでの夢』にコーラスで参加するなど、徐々に一風堂としての活動機会が減っていきます。1982年には土屋さんのソロ活動が本格化し、ソロ・アルバムの制作やロックバンド「MELON」のアルバム・レコーディングに参加するために渡米したり、THE MODSのアルバムのプロデュースを行ったり、高橋幸宏さんのソロ・ライブツアーにギタリストとして参加するなど、ソロ活動でかなり多忙を極めていました。土屋さんはこの頃にYellow Magic Orchestra (YMO) メンバー全員と繋がりが出来たこともあり、電子音楽への興味を持つようにもなります。このように1年間活動が無かったこともあり、見岳さんは一風堂が解散すると思い、作曲家への道を歩むためデモテープ作りを行っていたそうです。

そんな中、CMソングのオファーがあり、一風堂として制作されたのがこの「すみれ September Love」でした。

この曲はカネボウ化粧品「レディ80・パウダーアイシャドウ」のCMソングとして書き下ろされました。このCM にはアメリカの女優、ブルック・シールズが起用されました。



土屋さんは「売れないと思っていた」と吐露していましたが、それまでレコード会社と所属事務所に投資してもらっていた分を何としてでも回収したいと意気込んで作った曲でもありました。曲が先に制作され、その後に詞が付けられました。土屋さんは曲完成後の修正依頼や注文は一切受け付けないスタンスだった為、曲はそのまま書き上げたものが採用され、修正がかけられないなどの条件もあった為、プロの作詞家に詞を依頼しなければならず、その過程で作詞家の竜真知子さんが作詞を担当することになりました。

それは九月だった あやしい季節だった
夕やみをドレスに変えて 君が踊れば都会も踊る

いかにも「シティ・ポップ」のような雰囲気の歌詞観です。9月になると君と僕はめぐり逢い、ドレスコードを纏って2人は踊るのでしょ。

まるでマンハッタン・ストーリー 君さえいればパラダイス
昔見たシネマのように 恋に人生賭けてみようか

昔見た恋物語のような恋をしないか、と僕は君に語りかけているのです。君さえいればパラダイスとまで言い切るのですから、相当女性に熱心のようです。

You-You-You 誘惑の摩天楼
You-You-You 夢が花咲く

君への恋が花咲くのか、それともあっけなく散るのか。どっちなんでしょうか。

すみれ September Love 踊ろう September dancing
明日は明日 ラィラ ラィラ ラィ ラィ 君は夢か幻

タイトルと歌詞にある「すみれ」は花そのものも指しますが、実は人の名前であるようにも思います。そのまま「君」が「すみれ」なのではないかな、と。今夜はとにかく踊ろうと摩天楼で踊っていますが、明日になったら君はもういなくなっているかもしれません。

すみれ September Love again 今夜は September dreaming
ゆら ゆら ゆられて ラィ ラィ ラィ ラィ

夢一夜。とにかく今は一緒に踊り揺られて楽しむのみです。 

作曲・編曲は土屋さん。テクノロジーの進化もあり、この曲から一風堂における曲作りにプログラミングやサンプリングは欠かせないものとなっていきます。この曲の7〜8割はほぼ土屋さんとマニピュレーターの松武秀樹さんに寄ってアレンジが出来上がっていたと、見岳さんは述懐しています。イントロの特徴的なキーボードも既に完成されていたそうです。エレクトリック・ギター、ベース、プログラミングは土屋さんが担当しています。名ギタリスト・土屋昌巳による曲の核とも言うべきクリーンなカッティング・ギターとそれに相反するかのように間奏の歪んだニュー・ウェイヴ色の強いギターソロはまさに名演。見岳さんはブロック・コードをキーボードで追加して演奏したものと、間奏のバイオリン・ソロを演奏したのみだとのこと。藤井さんはサンプリング音源を基にバスドラムを叩いたり、シンバルを再生した際に追加したりするなど、当時としては異例の録音方法でレコーディングされましたが、「あの録音は面白かった」と振り返っています。結果的にテクノの要素を加えながらも、ニュー・ウェイヴ色の強いロック、そしてプラスαのポップス要素を入れた斬新な曲に仕上がりました。

この曲は大ヒットすることになり、一風堂の名前が広く知れ渡り、音楽番組にも出るようになりますが、この1982年に藤井さんは脱退してしまい、土屋さんはイギリスのロックバンド・ジャパンのサポートギタリストとしてツアーに帯同することとなり、一風堂としての活動に暗雲が立ち込めています。