大坂冬の陣における和議で、
大坂に立て籠もる幸村(信繁)や五人衆たちにも
しばし休息の時間となった。
和議の条件は
①大坂城の二の丸、三の丸の堀を埋め立てること
②淀殿を人質にしないこと
③秀頼が浪人を招き入れたことの罪を問わない事
で双方が合意に達した。
この3項目の合意で
真田幸村ら牢人たちの身の安全も保障された。
史実でも、幸村が叔父の信尹と接触したり、
毛利勝永などは、配流先であった山内家の陣に不義理の挨拶に訪れたなど、
比較的自由に行動ができたようだ。
しかし
徳川軍を苦しめた真田丸を含む巨大な堀を、
和議が成立した翌日から、人海戦術で徹底的に埋めたことなどから
家康が攻め寄せてくる事だろうことは、簡単に予測できた。
将来への緊張を強いられてはいたが、しばしの安穏の時であった。
このつかの間の休日に、
幸村が上田の姉夫婦にしたしめた
2通の書状が現存している。
1通は
幸村の実姉「まつ(村松)」への書状。
まつは、真田家重臣 小山田茂誠のもとに嫁いでいた。
真田幸村書状
慶長20年正月24日付 むらまつ宛 (長野・小山田恒雄氏蔵)

「この度は思いがけず合戦となり、私もここ(大坂城)に参りました。
その気持ちをどうかお察しください。
ただしまずまず講和となって私も死を免れました。
明日をもしれない情勢ですが、今のとことは何事もありません。」
今年発見された幸村の書状でも
姉夫婦が九度山の幸村にお歳暮を贈っていたことがわかっており
弟のことを気遣い、心配する姉のことをおもんばかったのか、
穏やかな文面になっている。
真田幸村が、上田の家族や家臣からも
時と距離を超えて愛された理由がわかるような、やさしい手紙である。
しかし、「明日をもしれぬ我が身」と正直な気持ちも吐露しており、
甘えん坊の弟と姉の、心の交流を感じさせる。
もう1通は
村松の夫である、小山田茂誠と、その子・之知への手紙だ。
正月に姉へ送った手紙にたいして
義兄も何らかの書状を幸村へ送り、その返信なのかもしれない。
小山田家は、兄・信之の家臣でもあり
大坂の陣では敵でもあるが、
そんな関係をも飛び越えた家族の強い絆の証明でもあろう。
家康が徹底的に破棄しても、家族の乗った「真田丸」は、
びくともしないのである。
尚、これは現存する幸村の書状で、最後の手紙でもある。
真田幸村書状
慶長20年3月19日 小山田壱岐守・茂誠、同主膳之知 宛 (長野 小山田恒雄氏蔵)

「大坂城内における自分の立場は、殿様(秀頼)の信頼は並大抵ではありません。
しかし、色々と気遣いは多いです。」
とかなり正直に大坂場内における外様の立場を述べている。
また今後の見通しについても
「定めなき浮世なので、一日先のこともわかりません。
私のことは、この世にあるとは思わないでください。」
とすでに討ち死にを覚悟したかのような言葉がつづられている。
先に紹介した村松への手紙と比較しても
悲壮感は強くなっている。
自分は所詮浪人であり、秀頼個人からの信頼は厚いけれども
秀頼の回りを固める側近に気を使わざるをえない、難しさがあってのことだろう。
勝利の為に献策をしても
その策が、受け入れられないもどかしさや気苦労は
幸村の心を重く憂鬱にしただろう。
ともかく、この手紙を書いた3月には
秀頼や幸村らの意向を超えて、
大坂方の主戦派は再び戦闘態勢を整え始め、
家康の元にも、その不穏な動きは伝えられていた。
というか、むしろ家康が煽って、彼らを決戦へと助長させたのだろうと思う。
ところで、和議が成立したこの時期、
池波正太郎先生の名著「真田太平記」では
小野のお通の手引きで、真田信之、幸村の兄弟再会の場面が描かれている。
もちろん史実ではなく、池波先生のフィクションであるが、
この場面は涙なしでは読めない、名場面中の名場面だ。
兄夫婦と手紙のやり取りがあったなら
恐らく兄弟の間でも、何らかの書状があったと想像してもおかしくはないし
恐らく忍びを通じてのやり取りはあったと私は思っている。
故に、『真田丸』 に小野のお通が登場したときから
兄弟の最期の再会の場面も描かれるのではなか、と期待していた。
三谷さんの脚本ではどうなんだろう?
仲の良さが史実でも確認できる兄弟なのだから
ドラマでも堺雅人さんと大泉洋さんの
最期の絆をどう表現していくのか、二人の演技に大注目したい。