高級デパートの近くで女は待ち合わせをしていた。携帯電話から通知音が鳴り、メッセージを見た。
「やはり私では務まりそうにありません。申し訳ございません。」
女は溜息をついた。
(もう、なんでもっと早く言わないのよ!段取りが全部狂うじゃない!
まあ、ドタキャンするような人なら指示通りに仕事できないだろうから、今わかって良かったわ。
えーと、どうしようかな…)
女が頭をフル回転させていると、視界の端に一人の男が入ってきた。多くの人が行き交う中でも目立つ容貌であるため、女も自然と目で追った。
その男は何か約束があるようで、建物の側で立ち止まると腕時計を見た。デートにでも行くのか、洒落たスーツを着ている。
ふと、何かを感じたのか向こうも女を見たため一瞬目が合った。
(この距離で私の視線に気付くなんて、あの人いいかも…)
女の仕事に繊細さは必要不可欠だ。
(ちょっと仕掛けてみるか…)
そんなことを考えていると、約束にはまだ早いのか男がぶらぶらと歩き始めた。
女は先回りするように男の正面に移動し、すれ違いざまに腕時計を見るふりをして腕を大きく振り上げ、わざとぶつかった。
と思いきや、男はそれを最小限の動きで避けた。
「おっと。」
「あっ、ごめんなさい!」
男は迷惑そうな顔をして通り過ぎた。
(いける。あの身のこなし。)
男は見るともなくショーウィンドウを眺めている。女は今度は背後からそっと近づいた。もう手が届くかというところで男はクルッと女の後ろに回り込んだ。
「俺に何か用か?」
(やっぱり気付いてたわね)
内心ほくそ笑んで女は答えた。近くで見るとますます整った顔立ちだ。モデルだろうか。とはいえ自分の仕事に美しさは必要ない。
「ねえ、あなた、かなり運動神経が良いわね!警官とかガードマンとかしてるの?」
「うん?」
「それともスパイとか?それなら言えないでしょうけど。」
「ふん、あいにくどれでもないな。」
職業柄、嘘をついているかどうかは大抵わかる。返事は本当のようだ。
「あなた待ち合わせしてるみたいだけど、もし今日の深夜に予定が空いてるなら仕事を手伝ってくれない?」
「ずいぶん急な話だな。」
「雇った人が急に来られなくなって、手を貸してほしいの。」
「何の仕事だ?」
「それは今は言えない。」
男はあきれた。
「はあ?何だよそれ?」
「あなたが私の仕事に合うか、見極めてから説明するわ。私の仕事って特殊だから、できる人めったにいないのよ。
もしあなたが合わなかったら、無意味に私の自己紹介するだけになるもの。」
「勝手な奴だな。」
「報酬は相応に払うから、悪い話じゃないわよ?適性あるかどうか試させてくれない?
仕事の内容を聞いてみて、嫌ならそこで断ってくれたらいいわ。」
「俺だって今から用事あるんだぞ。」
「テストにはそんなに時間は取らせないわ、10分もあればいいから。」
男は鬱陶しくなり、ぞんざいに言った。
「10分のヒマはあっても、あんたに10分やる義理はないな。」
「もう、ケチねえ。じゃあ…」
女は男の胸に向かって素早く手を突き出した。
「?!」
殴られたかと思ったが痛みはない。
前を見ると、引っ込めた女の手には男のポケットチーフがあった。満足気に形を整え、手袋をしてもなお細い指でつまんで頭上に掲げた。
「取り返してみて?」
「何を言ってる…」
男は手を伸ばしたが、たやすくかわされた。
(?!)
「私のテストを受けてくれたら返してあげるわ。」
(なんだこいつ?変な奴に捕まったな。口で断るより、こいつの言う事に従う方が手っ取り早そうだ。)
男はうんざりした様子で答えた。
「チーフの一枚ぐらいくれてやってもいいんだが、勝負から逃げたと思われるのはしゃくだから乗ってやるよ。」
「フフッ、嬉しいわ!じゃあ、私からチーフを取り返したら合格。制限時間は10分ね。」
「わかった。」
女は腕時計のタイマーをセットした。そしてにっこり笑うとフッと人混みに消えた。
(何?!)
女はワインレッドの華やかな服を着ていたのですぐに見つけられそうなものだが、ここニューヨークの夜ではドレスアップしている通行人が多いため、かえって保護色になり溶け込んでいる。大ぶりのネックレスを付けていたが、それすら目印にならない。
(どこにいった?)
男は目をこらして辺りを見渡し、ようやくあの女が遠くからこちらを見てニヤニヤしているのを見つけた。
(あいつ、余裕見せやがって!)
一度見つければ早い。人の間をすり抜け、逃げる女の近くまでたどり着いた。そこは大通りからやや外れたところで、人はまばらになっていた。
「もらった!」
後ろから羽交い締めにしたが、体に届く寸前にスルッと脚の間を抜けられ、男はつんのめった。
「うん?」
「へへーん。時間が無くなるわよ?」
背後から女の声がした。振り向くと得意気にチーフを顔の横でひらひらさせている。
「こいつ!」
女と向かい合い、パンチのような速さで何度もチーフに手を伸ばすが、女がそれよりも一瞬速く腕や体をひねってよけるため触れそうで触れられない。
女に逃げる気がないとわかり、向き合ったまま体勢を立て直して考えた。その間も女は勝負を楽しむように男を見ながら次の動きに備えている。
(このままではタイムアップになるな。負けたところでどうってことないが、俺のプライドがな。ちょっと気が引けるが…)
男は戦法を変えた。動物を捕まえるように、上方から素早く女の両腕を強制的に閉じて体ごと捕まえた。
「次は力技なのね。…あれ?…おかしいわね…ふんっ!…」
女がいろんな方向に身をよじって抜け出そうとしてもびくともしない。
「はいはい、抵抗しても無駄ですよ。」
男は女を右腕だけに抱え直し、左手で女の手からあっさりチーフを抜き取った。男はすました顔でわざとらしく女を見下ろした。
「俺の勝ちだ。」
女は全身の力を抜き、男の顔を見てニッと笑った。
「そうね。私の負けだわ。」
「意外と潔いんだな。」
「テストの方法を決めたのは私だからね。」
男は目の前の顔をまじまじと見た。そして、何かを思いついたらしく、女の真似をしてニッと笑った。
「おっ、そうだそうだ、お望み通りにさせてやったんだから、テストのお返ししてもらうよ。」
男は空いている左手を女の後頭部に添え、女の額を自分の肩にグイッと押し付けた。
「んっ?!」
女の視界が男の上着だけになった。体と両腕も抱え込まれたままのため、もがいても全く動けない。
「ちょっと、何するのよ?!」
男はそれに答えず、頭を押さえている手を少しずらして女のえりあしをかき分け、白いうなじに唇を寄せた。
女はきゅっと身を固くした。
拘束を解放すると、女は男を凝視しながら数歩あとずさった。
男は何ごともなかったかのように尋ねた。
「で、俺は今夜何を手伝うんだ?」
「…んー、あなたは私の仕事には合わないみたい。」
「うん?俺は合格したんじゃないのか?」
「合格なんだけど、まあちょっとね。」
「へえ、そうか。何の仕事だったのか気になるんだが仕方ないな。」
「付き合ってくれてありがとね。お互いに自分の用事に戻りましょ。それじゃあ。」
「じゃあな。」
女は去り、男は後ろ姿を見送った。
(何かあった場合、たぶん私が足手まといになる。
人のお荷物になるのは嫌なの。)
数時間後、真夜中のニューヨークで、女は雑然とした一室にいた。
そろそろ仕事に取りかかる時間だ。二人でするはずだった作業を一人でこなさなくてはならないので、今日の下見は念入りにした。ただでさえ予想外の展開がいくらでも起こるため、当日の状況をしっかり見ておく事は必要不可欠だ。
まずメイクを落とす。
気付かないうちに周辺に付着する可能性があるから。
革の手袋をピッタリした物に交換する。
細かい作業が可能で、何より指紋を残さないように。仕事前から手袋をはめているのはそのためだ。
目立たず動きやすい服に着替える。
仕事を始めるまでの時間は、全くの別人と認識されるために厚化粧をしてわざと印象的な装いをしている。高級店が集まるこの周辺ではそれくらいの方が場になじみ、違和感を持たれる心配がない。同一人物と思われないよう、仕事の度にメイクと服の雰囲気を様々に変えている。
ネックレスを外そうと、首に手をやる。
「…?」
胸元を見る。
「無い…?!」
外れて服に入り込んでいるかもしれないと、脱いだ服をあらためるがどこにも無い。紛失しては一大事だ。そもそも、痕跡を残すことがないよう、アクセサリーはちょっとやそっとでは外れない品を吟味している。
「…!」
頭を押さえ付けられ、男の動きが見えない状態でうなじにキスをされた。
ネックレスの金具は首の後ろにある。
「…あいつ、あの時!!」
感触がよみがえり頬が紅潮する。そして男の行動に気が動転した自分自身に腹を立てる。
脳裏で一連の出来事が自動的に繰り返される。映像を掻き消したいと頭を抱えるうちにハッとした。
「そういえば…」
男はニッと笑った。それを思い出し、企みの全貌がわかった。
うなじには唇だけでなくおそらく男の頬も触れていたが、見えない自分には頬だか何だか判別できない。だから、同時に近くにあるネックレスの金具を手で外されても気付かなかった。
さらに、女が動揺する事も男は予測していたのだろう。一瞬でも注意力が鈍ったはずだ。
要するに、キスはネックレスを外す手段だったのだ。
その結論に達すると、女の怒りは頂点に達した。
「あいつーっ!ギタギタにしてやる!!
顔ひっぱたいて、ボコボコにして、それから…」
(それから…)
しかし、女の分析には大きな間違いがあった。
同じ頃、同じ街の別の場所で、男は頂戴したネックレスをつまみ上げ、月の光に照らしてながめていた。
(お前すごいよ。俺にはあの動きはできない。)
ネックレスはかなりの高級品のようだ。あの女が自力で買ったなら相当な給料だ。
誰か高給取りからのプレゼントか、それとも…
自分にとってのチーフ同様、女はこのネックレスに大した思い入れはないだろう。だから取り返させる動機を与えるためにキスが必要だった。
逆にキスだけではその後に繋がらないため、女が行動を起こす口実としてネックレスをいただいた。
両方揃わなければ復讐を決意させるに至らないのだ。
職業柄、しばらく話せば相手の性格は大抵わかる。
(俺にビンタでもくらわせたくなるように仕向けさせてもらったよ。
『また会えないか。』とか耳元で囁いても、お前は甘い言葉では動かないだろうからな。)
自分がチーフを取り返した時の、負けたくせに妙に清々しい女の顔を思い返す。楽しかったとでもいうように瞳が輝いていた。
(今まで独りで仕事をやってきたが、お前となら面白そうだ。)
男の企みには続きがあったのだ。いや、今はまだ準備が調った段階で、これから本番が始まる。
(『 "テスト" のお返ししてもらう』ってちゃんと予告したからな?俺を探して取りにこいよ。そしたら
『俺のビジネスパートナーになったら返してやる。』
ってニヤニヤしながら言わせてもらうよ。)
自分がしたような提案をこれ見よがしに再現されて苦々しい顔をする女を想像した。
(諦めるか、『もう、仕方ないわね!』とか捨て台詞を言って受けるか、どちらになるかな。
お前は俺の腕がわかったはずだから、悪い話じゃないだろう?)
男はネックレスを首にかけ、服の内側に収めた。
(そろそろ行くか。)
今夜の仕事のため立ち上がった。女のテストを受けていた時とは異なる黒ずくめのシンプルな服を着ている。
ビルの屋上は風が強いため銀髪がなびく。元々強い光を持っていた瞳が急速に鋭さを増す。
先ほどまで身に着けていた革手袋よりも薄手の物をはめた。繊細な作業に適した物だ。
この男も、仕事の現場に指紋を残してはいけないのだ。
おわり
いつもは本文の前に感想等を書くのですが、今回は書く予定をしていなかったのであとがきにしました。
このブログで以前触れましたが、私は数十年前に大学の部活で競技ダンス(社交ダンス)を始めました。パートナーがいたのは社会人の最初までで、ダンス歴のほとんどはダンスホールへ赴き、その場で踊ってもらえる方を探しては細々と続けています。
大学生活はクラブ漬けで、練習に使っていた曲がBGM等で流れていたら、今でも踊りたくなります。歌が好きな人が鼻歌を歌うようなもので、実際に部員達は街中でなじみの音楽が耳に入ると反射的に踊っていました(若かったので…)。
各ダンスに定番の曲があります。年代によって異なりますが、私の大学時代はこのようなものでした。
ワルツ
・Open Arms (Journey)
・Beauty and the Beast (美女と野獣)
タンゴ
・ラ・クンパルシータ
・Phantom of the Opera (オペラ座の怪人)
ルンバ
・A Whole New World (アラジン)
・My Heart will Go On (タイタニック)
サンバ
・Dancing Queen (ABBA)
・Africa (TOTO)
そして先日プリンスアイスワールドでかなだいが初披露した Sing Sing Sing は、クイックステップといえばこれというほどの定番でした。
テレビ観覧で、プログラム冒頭に音が一瞬止み、サビが流れてかなだいがホールドで走り出すところでブワッと涙があふれました。
かなだいがこの曲を踊ってくれた嬉しさ、自分の練習風景、いろんな思いが巡りました。何度録画を見てもこの部分は目が潤みます。
曲への思い入れは別としても「楽しく面白い話なのに、なぜか涙が出て感動する」というストーリーは私の最も好みのタイプで、初めてかなだいでそれを見せてもらえて感無量です。
上記のリストについて。
ワルツの美女と野獣はかなだいカップルお披露目、タンゴのオペラ座の怪人は競技最後のフリーダンス。
どちらも私の思い出たっぷりの曲です。かなだいは大きな節目に、偶然にも私が踊っていた曲で滑っているのです。この事に気付いたのは、今回の物語を書いている途中でした。
その時、ふっと帰納法が頭に浮かびました。
「 Sing Sing Sing を滑る今年は、かなだいの何か節目になるのかも?」
完全な我田引水の予測です。かなだいは私の思い出など知るよしもありません。
考えてみれば Sing Sing Sing を見る前から私にとっては既に、今年はかなだいが未来を語るようになった節目でした。
かなだいはプロに転向してから個人の目標しか語らなかったのが、今年に入ってからカップルとしての年単位の目標を何度も口にするようになりました。
私はそれが実現したら嬉しいのはもちろんですが、それよりも、今かなだいがそう思える状態であることが一番嬉しいのです。
大輔さんのソロも哉中ちゃんのソロも大好きです。直近の麒麟ソロ・玄武ソロは共にお二人それぞれの好きなプログラムトップ3に入るほど。
哉中ちゃんがシングル選手だった頃は残念ながら知らないのですが、大輔さんは確実に私の好みを更新中ということです。
それでも私はどうしても、2人の人間が組んで創る作品に惹かれます。私の人生の半分以上で社交ダンスに触れてきたため、かなだいがここまでくるのがどれほどわずかな可能性だったかを思ってしまうのです。
1人で素晴らしい演技をするのと、2人でそれと同じレベルの演技をするのとでは、もしも確率を計算できるなら何分の1になるでしょう?
単純に反比例の2分の1ではないはず。色んな条件で削ぎ落とされていき、もっともっと低い確率になるでしょう。
私はスケートの知識がないので、かなだいの奇跡的な点は、技術が高い2人が組んだ事以上に、組んだ2人の相性が良かった事だと思っています。
仮に完全無欠な人同士が組んだとしても、うまくいくとは限らないでしょう。同じタイプの2人、正反対の2人、一概に2人組といってもどんな2人なら合うかはカップルそれぞれです。
性格、健康、費用、生活環境等、全てが合ってはじめて完成される貴重な結晶をできるだけ見ていたい。
トップアスリートの世界はよくわかりませんが、解散を視野に入れて結成するカップルはいないでしょう。哉中ちゃんがオリンピックまでの2年間限定の覚悟で大輔さんを勧誘したのは珍しいケースではないでしょうか。
哉中ちゃんがオリンピック後、または競技引退時と予想していた解散する未来は大きく変わりました。
そもそも大輔さんに至っては、アイスダンサーであること自体が予想もしなかった未来です。
これから予定通りになるか、予定よりも良くなるか悪くなるか、未来がどうなるかはわからないけど、少なくとも現在のかなだいは
「10年先まで毎年新しいプログラムを滑ろう」
と語り合う事ができる。私はそれが幸せです。
Sing Sing Sing がお披露目された時のミーグリの写真をSNSで拝見して驚きました。
どの写真も、かなだいの雰囲気が今までの何倍もそっくりに見えたのです。もちろん1年目から調和していましたが、何かが変わったのか、私の見え方が変わったのか、男女の双子のように思えるほど。
私がこじつけた節目である今年、かなだいが瓜二つに見えた事が今となっては後付けの吉兆に思えて。
年末までに何か大きなお知らせがあるかは私の世迷言として、「かなだい」として今年の3分の2も過ぎようとしている事が奇跡継続中だと思っています。
ここまで下書きをざっと書いた後、りくりゅう座長のThe Destiny がありました。オープニングからフィナーレまで、今も抜け出せないほどDestinyに浸っています。
璃来ちゃん、龍一君、素晴らしいショーを見せてくださってありがとうございます。運命と言い切れるパートナーに出会えた事、本当におめでとうございます。
テレビ観覧して、ライラックワインで2人で1つの服をまとって比翼の鳥のように滑るかなだいに涙がはらはらと流れました。
連絡先も知らないほど縁遠い先輩後輩だった大輔さんと哉中ちゃんが、物理的に一体化できるまでのカップルになった。
この演技そのものが私にとってはかなだいの節目だと言っても過言ではありません。