御朱印帳をわける理由。 | イシヤとメシヤ。

イシヤとメシヤ。

おいしいものと、
天然石がしあわせの素。
ただの鉱物オタクが、エネルギーもわかるようになっちゃいました!
ちょっとしたコツで、エネルギーってわかるようになりますよ〜^ ^
ときどき、ガイドさんのイラスト描いてます☆

御朱印帳は、お寺と神社ではわけたほうがいいという話がありますが、それは、単純に神社やお寺でいい顔をされないから、ということではありません。

そもそも、なぜいい顔をされないのか?

ちょっと前に、お寺用の御朱印帳を持たずにたまたま立ち寄った先に大きなお寺がありました。
普段は御朱印帳をわけているのですが、偶然立ち寄ったためお寺用の御朱印帳を持っていません。遠方のため、なかなか来ることができないので、神社用の御朱印帳に書いていただくことはできますか?」とお伺いしたところ、なぜわけるべきなのかを教えていただけたのです。

問題は「死」との結びつきで、お寺の御朱印は、棺に入る際に、いっしょに入れてもらうことができます。
それによって守護していただけたり、功徳を積んだとして極楽に行かせてもらえるとか!笑

でも、神社の御朱印は納棺することが好ましくないのです。
神さまを「死の穢れ」に触れさせることがよくない、ということ。

神葬祭という神道の葬儀がありますが、そちらもやはり、死の穢れを神域に入れるのはよくないということで、神社で行われることはほとんどないそうです(地域色が強く、決してないとは言い切れないようですが)。
しかも、極楽に送るのではなく、家に留め守護神とするための儀式。

古事記にも、伊奘冉は死を得て黄泉の国に行き、伊奘諾はそれを追い黄泉の国に行きますが、地上に戻りその穢れを嫌い禊をしたという話があります。

その穢れを洗い流す際に生まれたのが天照、月読、素戔嗚の三柱であり、穢れから得たものも大きいのですが、黄泉の国の穢れを嫌ったための禊なので、そこを考えると神社の御朱印を納棺するのが好ましくないと感じるのはよくわかりますね。

納棺しないならいいのかどうかはわかりませんが、御朱印を書かれる方にしてみたら、納棺するかもしれないお寺の御朱印と、神社の御朱印を一緒にするのは……と思われるかもしれません。
そもそもが納経した証であったので、神社の御朱印自体が神仏習合の影響からはじまったもののようですけどね(⌒-⌒; )

しかも、もはやスタンプラリーのようになっている現代では意味のないことかも知れませんが、死出の旅のために集めているという方もいらっしゃるので、その際はお心に留め置いてくだされば嬉しいです^ ^
もちろん神さまは人が思うより寛大ですし、それで怒りを買うということはありません。
人の配慮である部分が大きいですが、意味合いとしては知っておいていただければと^ ^

個人的には、神さま、仏さまとのご縁を得た証として御朱印をいただいていますキラキラ

まだまだ勉強不足ですので、なにかご指摘あればコメントなどいただければ嬉しいです^ ^