私の生まれたところのコト

京都府加佐郡大江町大字仏性寺
ここが私の出生地だ。
「鬼退治」伝説。
そして和泉式部の娘、小式部内子が「大江山いくののみちもとおければまだふみもみず天橋立」と詠んだ和歌でも有名。
だが、この地は自然が豊かないわゆる「ど」がつく田舎だった。
私のすでに亡き父は、鉱山技術者を仕事としていた。
当時この大江町にあった銅鉱山に赴任したのがこの地との関わり合いになる。
赴任中に産まれた私にとっては出生地とはいえ、墓も親戚もこの地にはない。
ただ、生まれてから小学校2年生の3学期まで過ごし、故郷といえる場所ではある。
「田舎」と書いたが、私が暮らしている当時は鉱山に勤める社員、取引業者、そしてそれらの家族で2,000人を超える町が形成され
ていたと後日聞いた。
当時の雰囲気は炭鉱の町を思い描いていただければいい。
供給所と呼ばれる商店、共同浴場、散髪屋にパーマ屋、保育園、医院など生活に必要な施設は十分に整い、周辺には多くの社宅が連なっていた。
小学校は歩いて小一時間掛かる距離にあったが、行きはともかく帰りはまっすぐ帰るわけがなく、沢蟹を取ったり山に分け入ったり、いわゆる道草のし放題。
遠い通学路も苦痛には思えなかった。
夏には二瀬川で泳ぎ、冬にはそこら辺の雪の斜面でスキーをして遊んだことを思い出すと、この地は私の幼少時代を過ごすのに恵まれていた環境だったいえる。

楽しい思い出、美しい風景、よい印象しか思い出せない土地、そこが大江町だった。
この地を去ることになったのは、鉱山の閉山によるもの。
通っていた小学校の当時児童の半分以上は親が鉱山に勤めていたから、この閉山によってこの地域は一気にさびしくなった。
父の転勤は周りの同僚と比べ遅いほうだったようで、また一人、また一人と転校していく友達を見送った記憶がある。
そしてとうとう我が家の引越しの日が来たわけだが、その日が寂しかったのかどうかは思い出せずにいる。
それから30+数年間、いまだに年賀状のやり取りを当時の担任先生としている。
今年いただいた年賀状には、
「この1月1日から大江町は福知山市に合併されました。大江町がなくなるのは寂しい思いです」
と記されていた。