少し前に

実は自分の覚え書きのつもりで

書いたこの文章が

アメトピに選ばれて、

アクセスが一気にふえてしまい、

怖くなって、

掲載をやめてしまいました。

アメトピ見て、訪問してくださった

たくさんの方々に、お詫びしますね。


不登校で困っている、なやんでいる皆さんと

親御さんたちの

何らかの安心情報になればやはり嬉しいので

思い切って、また出すことにします。


💐💐💐💐💐


今中学生の不登校生さんを抱えるママたちに

お子さんの高校受験に

何らかのご参考になればと思い、

私見ですが、あえて書きます。

 

まだ全部書けないというか、

娘が大人になり切るまでには

私もまだ吹っ切れていなくて、

赤裸々とは行かないのですが、

今年も受験まで半年ほどなりましたので、

今、大学2年生になっている

元不登校生の娘の

高校受験の時のことを書いておきます。

 

娘は国立附属中1年の2月8日から

2年以上にわたって

学校にほとんど行けなくなりました。

本当に最後の最後までダメで、

卒業式は校長室で卒業証書をいただきました。

150人の同学年の中で、

うちとあと一人、男の子が

別々に、時間差で一人卒業式でした。


おめでたい卒業式のはずが、

“普通に卒業”できなかったことが悲しくて、

そして、何とか中学だけは

とりあえず卒業できたことに安堵して

私は泣いていました。

お母さんも沢山登校されましたね、

と労っていただきました。

時々、あの校長室での

暗く重たい心境を思い出してしまいます。

でも、卒業できたあの時点で

一歩前進できたのだと、今は思えます。

 

娘のことを振り返る時、

あとで考えても

重大だった事がひとつあります。

 

不登校から1年近く経った頃だったか?

ある日、

通信簿(内申書)に「1」があると、

入試の願書すら

出させてもらえない、という

噂を耳にしました。

そして出席日数が0だと、

それだけで受験できないと。

 

その噂の真偽はわかりませんが、

それを耳にした時は

自分も娘の不登校におののくばかりで、

出席のことも、成績のことも

全く気にする余裕はありませんでした。

 

そもそも中1の終わりに

校門をくぐれなくなった時は

「不登校」がまさかその後6年にわたって

断続的に続くとは

100%夢にも思っていませんでした。

 

おそらく2週間か、

まぁ数ヶ月家で過ごせば

また元気を取り戻して学校に

行けるとばかり思っていたんです。


まさか自分の娘が

「不登校生」になるなんて。

 

実は私自身、小6(1972年)から

18歳半まで海外の学校に通っていて、

日本の中学も高校も知らなかったので、

日本の「受験」の知識も皆無でした。

だからもう、娘の不登校という事態に

どうして良いのか全くわかりませんでした。

 

でも内申書に「1」があると

高校受験が出来なくなる、という

噂だか事実だかわかりませんが、

信ぴょう性があるように感じました。


なので、不登校になってからは

最低でも「2」を取ることを

目標にしました.

 

とは言っても、

うちの場合は通っていた中学が

25キロも離れていたので、

それは物理的に簡単ではなかったです。

娘を車に乗せて週に最低二日は

学校のカウンセリング室に登校しました。

学校がきらいなのではなく、

「行きたいけど行けない」

状態だったため

その気持ちを

親も一緒になって

表現した方が良いように思いました。

 

でももちろん、肝心の本人は

朝早くは起きられないし

助手席には座ってくれなくて

後ろの座席でイヤホンつけて

一言も喋らなかったり。

よく続いたなぁと思います。

 

とにかく学校に行ける日は

なるべく連れて行く、ことを徹底しました。

そして、

学校からの課題は提出する

試験は全部受ける ことを目標にしました。

文化祭の時は得意の絵を描いて提出したり、

体育祭は影から見学する・・・とか。

とにかくあの手この手で

娘を学校に車で送迎しました。

 

試験はカウンセリング室で

受けたものもあったと思いますが、

ほとんど私がまとめて自宅に持ち帰り、

娘に全科目受けさせて、

それをまた学校に届けるということを

何回だったんでしょう?

かなりの回数やりました。

前期後期はもちろん、

中間テストもあったと思います。

 

娘は勉強が嫌だったのではなく、

単に学校という場所に

物理的に入れなかっただけで

「娘は悪くない」と母親として

主張していたのかもしれません。

 

技術の先生のご配慮で、

技術の授業も

一人で受けさせていただきました。

中2の時は箸置きの工作、

中3の時はラジオの工作を

先生と二人きりで、作ってきました。

ボランティアとしてバザーの売り子だったか、

社会活動に参加もしました。

 

毎日が必死すぎて、

もうあまり覚えていませんが、

とにかく学校と連絡をとり続けること、

なるべく関わることを目標にしていました。

そしてなんとか中3の成績を

「2」でまとめて、

高校入試の願書を出すことができました。


たまたま在宅でできる翻訳の仕事を

当時の仕事場の先輩から配慮いただき

出勤しなくても良かったことも

今思えば、大変な幸運でした。

 

うちの場合はパパが他県に単身赴任していて、

いわゆる「ワンオペ」だったので、

娘と24時間一緒に私も頑張りました。


もちろん、学校側の「おまけ」も

正直あったとは思います。

でも、生徒をなんとか卒業させ、

高校に送り出してやりたいという

先生方の熱意を感じました。

娘の不登校は

一人の先生とうまく行かなかったことが

最大の原因ではあったけれど、

その後は他の先生方が一丸となって

本当に親身になって

娘を支えてくれたことも事実です。

そういう学校と

うちの家の綿密な連携プレーで

娘は立ち直るきっかけを

持てたのかなと思います。

 

不登校の始まりが学校の先生のせいで、

その先生がずっとそのまま同じ学校にいて、

親としても、正直、

学校にはなるべく行きたくなかった。

その先生に会うのは嫌だった。


今だからいいますが、

その原因となった先生と一度面談しました。

先生は娘の人格を否定するような

言動をされているのでは?と聞きました。

そしたら、先生が開口一番、

自慢げに言うんです。

「おかあさん、娘さんは

話を盛っていますよ。

私は生徒に大変に人気があるんです」と。

その瞬間、私はこの人は

教師に向いていないと確信しました。

 

学校が人生の全てではないけれど、

たった13歳〜14歳の子供が

学校に行きたくなくなる現象は

決して本人の問題ではないのです。

子供は絶対に悪くない。

悪いのは親の私を含めた大人なのです。

 

悪いのは大人。

それだけを肝に銘じて、

私なりに

できる限りのことをしました。

過保護すぎたとも思いますし、

親がそこまで介入しなくても

何とかなったのかもしれません。


そもそも義務教育だから

黙っていても

卒業はできたのかもしれませんし、

例え出来なかったとしても

長い人生

どうってことなかったのかもしれません。

 

が、うちの場合は

ほぼ6年かかって、

壮絶は6年ではあったけれど、

なんとか

「普通の大学生」に辿り着きました。

 

不登校というものが何年続くのか、

平均年数とか

全くわかりませんが、

とにかくしんどい中学時代でした。

娘は中学を全く楽しめなかったので、

今でも付近を通ることすら出来ません。

だから全く逆方向の大学を選びました。

 

いつか、

娘が完全に立ち直ることができた

きっかけとなった私立高校について

機会があったら

詳細を書きたいと思います。

まだ書く心境にはなれません。

もう少し、時間を下さい。


なんとか入った高校のおかげで、

今の娘があります。

ひとりの最低の中学教師でつまづき、

最高の高校で立ち直りました。

 

不登校生さんで

ご心配を抱えるぱぱさんママさんたち。

子供たちは悪くありません。

きっと大丈夫です。

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