アメリカ寄りのパーレビ政権を

批判する暴動が始まっても

日本人はイランとの関係も悪くないし、と

最初はのんびりしていたと思う。

 

ところが

食料がなくなる、水に毒が入った、

外国人は殺される、

などなどのデマが飛び交うようになる。

 

父は日本の企業から派遣され、

建設ブーム真っ只中のイランで

イラン国営ガラス会社の工場長をしていた。

単純に言うと、

パーレビ国王の「手先」だったわけだ。

 

夜、高台にあった自宅マンションの窓を開けると、

下町の方で焼き討ちの炎とともに

人々のワァーと言うような叫び声、

暴徒化した市民を抑えようとしたのか?

パンパンという銃声のようなものも聞こえ始めた。

 

流石に危険を感じるようになったため、

様子を見るためにも

とりあえずヨーロッパに出ようと言うことになった。

日本も3年半ぶりだし、

ちょうど一時帰国もできるね、みたいな。

極めて危機感がなかった。

 

1978年〜9年ごろの日本は

国際的にはまだまだ発展途上。

大使館からの情報は皆無だった。

父は亡くなってしまったので

どうやって国外脱出の

算段をつけてくれたのか、

今となってはわからない。

 

お世話になったのは

父の所属先、住友グループの

住友商事だった。

石油を抱えるイラン。

当時は政府(外務省)より、

民間の企業の方が

より情報を持っていたのだろう。

 

忘れもしない1978年12月8日

一時帰国することになった。

「出るぞ」と

父からその日時を聞かされた時、

あと一週間も先?という焦りと

もう大好きなイランに

一週間しかいられないの?

という悲しみとで

なんとも知れない気持ちになったのを

まだ鮮明に思い出す。

とにかく家財道具はそのまま。

私はテヘランに戻って

学校が再開したら、

アメリカンスクールを

卒業するつもりだったのだ。

 

それがまさかの

永遠の帰国になるとは。

これまた夢にも

私は思っていなかった。