2月11日は

「イスラム革命記念日」だ。

 

43年前の1979年

イランでイスラム政権が

成立した日である。

 

当時私は18歳、

父の転勤のため

首都テヘランにすみ始めて3年半。

アメリカンスクールのSenior, 

つまり高校最終学年の12年生だった。

 

もう昔々の話になってしまったので

全くご存知ない方も多いだろう。

当時のイランには

Shahanshah,  King of Kings という

称号を掲げていた

パーレビ国王が君臨していた。

 

父親が革命を起こして

「王」となったため、2代目だ。

アメリカ大好き、イランの欧米化と近代化を

一気に推し進めようとしていた。

 

イスラム教では禁じられている

お酒も売られていたし、

女性たちはチャドールという

大きなスカーフで体を覆う必要もなかった。

日本人の10代の私から見ると

宗教色がほとんどない

ごく普通の「自由な国」で

私は乗合タクシーを拾っては、

アイススケートリンクに遊びに行ったり、

真新しいショッピングセンターで

Kiss や Queen の

海賊版カセットテープを買って楽しんだり

ごく普通の高校生活を送っていた。

 

平和だったテヘラン市内の様子が

突然おかしくなってきたのは

1987年の夏頃からだったと思う。

 

テヘランの南側、下町の方で暴動が始まり、

リカーショップ(酒屋)が襲われたり、

西側の文化に関係するような場所が

暴徒化した市民の攻撃を受け始めたのだ。

 

学校までスクールバスで小1時間くらいだったが、

その往復の道のりで、

焼き討ちされた商店や

路上に散乱する酒瓶を見るようになった。

 

でも高校生の私には

その「暴動」の意味が良くわからなかった。

 

そんな焼き討ちを目撃して間も無く、

アメリカンスクールは狙われているという

噂が立ち始める。

 

暴動はパーレビ王の「欧米化」に反対するもので、

端的に言えば、「反アメリカ」だったのだ。

襲われてもおかしくなかった。

当然だったかもしれない。

 

私が通っていた Community School は

テヘランで唯一のアメリカンスクールで

小学1年生から12年生までが在籍していた。

1学年、20人くらいだったかなと思う。

200人を超える生徒がいたはずだ。

 

数日の間、スクールバスは

子供達の金髪が見えないように

カーテンを閉めて運行した。

なるべく目立たないように

と言うことだったのだろう。

10月末のハローウィンに予定されていた

音楽会が中止されてしまった。

日本で言う文化祭のような催しで、

私も参加して歌う予定だったので、

中止には心底がっかりだった。

 

実は私はよく覚えていないのだが、

母によると、学校から出られなくて、

一晩、学校に

足止めされたことがあると言う。

 

学校から家に向かうスクールバスに乗ったものの

途中で危ないとドライバーが感じたのか?

急遽、学校に戻り、

そのまま図書館で友達と車座になって

過ごした記憶はうっすらとある。

でもそもそも革命にもイスラム教にも疎い

おバカな私にはあまり深刻さがなく、

友達と一緒に入られることが

楽しかったのを覚えているくらいだ。

ところがあくる日に校門から出た私たちは青ざめた。

学校を囲んでいたコンクリートの壁に

焼かれたあとが残っていたのである。

つまり焼き討ちにあったのだが、

中には入れず、暴徒たちは諦めたらしい。

学校だから、諦めてくれたのか?

今でもわからない。

 

当然学校は閉鎖になった。

「反アメリカ」の暴動だ。

欧米人は次々に帰国して行った。

歯が抜け落ちるように、と言う表現があるが、

まさにそんな感じだった。

 

でもまさかまさか

大好きな学校を、

そしてテヘランを

離れることになろうとは

全く予想もしていなかった。

 

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