末期の肺がんのため

姑(84)が突然他界して9ヶ月。

 

舅姑二人の

生まれ故郷での大きな葬儀、

舅がやっとこさ

施主をこなした四十九日、

その明くる朝の

舅の大腿骨骨折と3ヶ月の入院。

続いての老人ホームへの入居。

施主の舅不在の中、

檀家250人もが勢揃いしての

初盆の法要。

嫁の私は激動の日々を

過ごして来た。

 

そして秋晴れの日曜午後、

「ドナーファミリーの集い」に

招待された。

 

実は姑が亡くなってすぐに

落胆する舅に

姑の角膜の提供を承諾させた。

一人息子の私の夫は単身赴任中。

妻を亡くした舅を

これからどう支えて行くのか?

嫁の私はそればかり考えていた。

 

両目の角膜を提供した姑を

褒めてくれるのかしら?

軽い気持ちで娘と出席した。

都心の一等地のビルに

用意された会場に入ると

花が飾られた丸テーブルに

なんと私と娘の席があった。

 

角膜を移植したレシピエント

角膜を提供したドナーの遺族

移植に携わる眼科医の先生方、

ドナーとレシピエントをつなぐ

コーディネーターや

この運動を支援する企業などの皆さん。

関係者のそれぞれの思いを聴きながら

ほとんど独断ではあったけれど、

角膜の提供を決めたことは

間違っていなかった事を

私は確信した。

 

姑の角膜をもしもどなたかに

使い続けてもらえれば、

姑の眼は生き続ける。

それは一人残されて

生きる気力を失った

舅を励ますことでもある。

とにかく「勢い」だけで

献眼を決めたのだった。

無論、一人息子である夫にも

事後承諾だった。

 

出席された皆さんの声を聞きながら

姑のことを思い出していると

コーディネーターの佐々木さんが

走り寄って来てくれた。

 

「献眼して良かったです」と

改めてお礼を言うと、

「あの時の先生が・・・」と

佐々木さんが振り返った途端、

私は「あ!」と大声をあげた。

 

一緒の丸テーブルの

娘の隣に静かに座っていた

ハンサムな男性が

角膜の摘出手術をしてくださった

冨田医師だったのだ。

あの時は白衣だったし、

私は頭の中が混乱していたためか、

あの時のドクターが

まさかお隣の人とは

全くわからなかった。

 

(後で娘に聞いたら

娘は最初からあの時のドクターだと

気づいていたらしい)

 

あ”〜〜この先生だ!

先生のお顔を改めて見つめたら

姑が亡くなった時の

あの病室の空気が一気に蘇って、

私は不覚にも突然

大泣きしてしまった。

 

あの夜、

呆然とする舅(89)と

娘(16)の傍らで

私は携帯を握りしめ、

姑の葬儀の打ち合わせを

粛々と行っていた。

丑三つ時のガランとした病院で

一人きりの

とても孤独な作業だった。

 

一人っ子長男はいないし、

舅は姑が亡くなったことを

どう受け止めているのか?

ぼわーっとしていたし、

娘は高校生だし・・・

そんな中で

「角膜提供を」と

冨田医師に静かに

語りかけられた事で、

私は正気に戻ったのだった。

 

姑の角膜をもしもどなたかに

移植してもらえるのなら、

姑の眼は

生き続けることになる。

それは姑の供養であり、

落胆する舅を

励ますことでもある、と

とにかくただそれだけだった。

社会的に崇高な決意とか、

誰かの役に立ちたい、とか

そこまで頭が回らなかった。

 

ただ、献眼した後で

「故人に目がないと

天国に行って困る」と

非科学的な事を

言って来る人もいた。

冷血な嫁だから

献眼出来たのかしら?と

自問自答したり。

責任も感じて

悶々としていたのだった。

 

でも今日、

私はやっと理解した。

そして心から安堵した。

 

私が勝手に

「ドナーファミリー」に

なったのではない。

姑が私たちを

「ドナーファミリー」に

してくれたのだ。

 

結婚35年、同居20年

正直、大好きには

なれなかった生前の姑。

「ドナーファミリー」になって

やっと本当の

「家族」になれた気がしている。

ありがとう、ばぁば。

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