記者の後輩にあたる佐戸未和さんが過労死された事が一つのきっかけとなって、NHKでは働きすぎを防止する取り組みがはじまっているそうだ。同期も最近の劇的な変化に驚いていると聞いている。

 
私は52才半で家庭の事情で組織を離れたが、NHKの仕事をまだ契約で請け負っており正直なところ、なかなか批判がしづらかった。ところが今年、役職定年である57歳を超えてしまって、同期も次々に子会社に転籍を始めたら、まだ仕事は続けているのに、私の意識が劇的に変わってきた。
 
働きすぎる必要はない。泊り勤務は必要最低限で!と後輩の皆さんに、特にママ記者たちに、声を大にして言いたい。
 
未和さんの過労死の認定後、彼女を学生時代から面倒見ていたジャーナリストの下村健一(元TBSキャスター)さんにもお会いしたのだが、なぜか去年のその時点ではさほど問題を感じていなかった。まだ若かったのか?(笑)。ちょっと今日は遅ればせながら下村さんへの報告を含め、書いておきたい。
 
長年、NHKの記者には「泊まり勤務」があった。当たり前のものだった。私が入局した昭和59年当時には「男女雇用機会均等法」がなかったので、女性記者の採用は2名だけ。男性の職場だけどとりあえず仕事やってみて的な空気(笑)だったが、2年後に雇用機会均等法が出来てからは、女性記者にも泊り勤務が始まった。私は規模の大きな名古屋局にいたため、愛知県警記者クラブ内にあるNHKの小部屋のソファーベッドに泊まった。入り口はカーテンだったので、仕切りの向こうでは他社の記者たちが泊まり込んでいたはず・・。おそらくいまでも警視庁を始め、各県の県警記者クラブでは泊り勤務が続いているはずだ。同期の相棒、美和子記者は新人時代は電波を出さない横浜局にいたため、二階のニュースの大部屋に一人で泊まっていたのではないかと思う。私も9年生の時から三年間、横浜で勤務しているが、5階建のビルの2階に若い女性が一人っきりで泊まるのだ。放送局という性質上仕方がないが、外から暗証番号でドアを開けられるようになっているので、今考えるとゾッとするほど危険だったのかもしれない。
 
この泊り勤務、まさか放送局に20代、30代の女性が一人で当直をしていること自体があまり知られていない時代は、その危険性にすら気づかなかった。しかし、この「泊り勤務」はNHKの場合、管理職になっても、子供が生まれても、局を退職するまで、私の場合は52歳まで続いた。
 
今だから言うが、私が局を辞めざるを得なかった理由のひとつは、いい歳した管理職のおばさんだった私が、最低でも月に一回、小学生だった娘を一人で自宅二階に残し、徹宵勤務をしなければならなかったからだ。6年前まで、私は海外向けに24時間放送を出している国際放送局の英語ニュース・デスクで、部次長であり、編集責任者だった。夜通し、ほぼ毎正時か2時間おきに放送を出していたため、最低でも5〜6人の局員や編集さん、メークさんらと夜通し勤務しており、私は管理職としてローテーションで責任者をしていた訳である。
 
この勤務は正直、「母親」にはきつかった。遅くとも夜10時ごろまでには昼間担当の責任者とバトンタッチして自分がリーダーとなり、朝8時に朝の担当者に引き継ぐまでの間、10時間くらいは編集長の席から離れられない。家族持ちの男性なら昼間寝かせてもらって、夜出動もできるかもしれないが、私の場合は子供を学校に行かせて、学校から子供が帰ってきたら晩御飯を食べさせたりお風呂に入れてから、出勤していたのだ。
 
子供が生まれて1歳半で復帰したが、娘が4歳になった年から4年間は夜のニュースのキャスターをしていたため、帰宅は毎晩11時近かった。私は管理職になってから子供を産んだため、乳飲み子や幼児を抱えた同世代の同僚がほとんどいなかったので、時短もなかったし、深夜勤務も全て「自己裁量」。強制こそされなかったが、夕方5時に帰ります、なんて、全く無理だったのである。それでもまだ娘が小さいうちは姑や母を総動員してなんとか誤魔化せた。が、小学生になって困ったのは娘が「なぜうちのママは夜、いないのか?」と訴え始めたことだ。1年生の時から携帯を持たせたが、夜中にわんわん泣きながら電話をかけてきたことが数回ある。うちは舅姑との二世帯住宅だが、一階と二階は顔を合わせなくても生活できる設計と大きさになっていて、二階で寝ていた娘は舅姑の気配も感じられなかったはず。もちろんじぃじばぁばのベットに潜り込めるように躾けておけば問題はなかったのかもしれないが、うちは運悪く、パパは海外に単身赴任中で、じぃじばぁばとは一緒に寝てくれない子供だったのだ・・・。
 
携帯電話で娘をなだめながら、自宅の固定電話を鳴らして一階のじぃじばぁばを叩き起こし、二階の娘の様子をみてもらうように頼んだことも何度もある。
 
この夜中に子供をほったらかしてまで泊り勤務をするパターンは、10年ほど前、NHK広報誌ステラの編集長になっても週一回、続いた。校了日の毎週水曜日はどうしても朝3時ごろまで仕事が終わらなかったのだ。しかも次の日は普通に朝9時か、遅くとも10時には出勤していたはず。小学校まで朝、送っていた時期もある。一体、私はどうやって娘を育てていたのか?まだ10年経っていないのに、思い出せないくらい、ただ無我夢中だった。
 
東日本大震災の時は、被害がなかった私が言うのは申し訳ないが、「最悪」だった。揺れた時は渋谷のオフィスにいて、瓦礫に埋もれて同僚のおじさんたちとここで死ぬのか?と一瞬思ったくらい、揺れがすごかったけれど。ところが家に帰れない。ステラを発行できるのか?全国に届けられるか?危機的状況になった。だから福島の原発から煙?がもくもく上がるのをテレビで眺めながら、子供のそばにはいられないのだ。シンガポール大学で勤務していた夫はテレビを見て、仰天したらしい。日本はどうなったのか?と。確かに海外の放送だと一番ひどいところが繰り返し放送されるのが常なので、日本が終わるかのように見えたのだろう。夫婦で電話で相談し、娘をシンガポールに逃がそう、と言うことになった。
 
私はなんとかやりくりをして必死で4日間の休みを取り、周囲の大変な顰蹙を買いながら(いま思い出しても忸怩たる思い)、小二の娘をシンガポールの夫の元に届け、続いて実家の母(当時74)を送り込み、ひと月ほど、母と夫に娘を任せた。
 
今、こう書くとなんだか昭和何年の話?と思うけれど、まだあれから8年しか経っていない。
 
今、冷静に考えてみたら、私の勤務は異常だった。泊りがしんどいとか、そんな甘いもんじゃない。仕事に専念するためには娘が邪魔だったのだ。
 
もちろん仕事をしている時には乗っていたし、体調も悪くなかった。ところが全く気づかなかったけれど、娘は私のこのひどい働き方でずいぶん傷ついていたらしい。娘が自分の小さい頃を思い出して、色々と気持ちを伝えてくれるようになった最近、娘にとても寂しい思いをさせていたことがますますわかってきた。過去の自分の異常な働き方で、取り返しのつかない過ちをしてしまったのかなと、深く反省しつつ、後輩たちには遠回しに「子供を犠牲にしてまで働くな」と囁いているつもり・・・。
 
まだ10年も経っていないのに、こんなことバラしていいのかな(笑)。私は単にしぶとかったから過労死もしなかったけれど、娘が死んでいてもおかしくなかった時期も、詳細は控えるが、正直、あったのだ。
 
とにかくあなたも私も、男性も女性も、パパもママも、働きすぎはやめましょう!
 
あなたは自分は才能あるエースで、会社を一人で支えていると思っているかもしれないけれど、どんなにあなたが優秀でも、もしあなたが今日過労死したら、会社は何の問題もなく、サクサクと続いて行くだけです。
このお盆の期間中も、全国あちこちの放送局、新聞社で記者たちが一人で当直勤務をまだ旧態依然としているはずだ。大都市の報道機関では泊まり込んで見張る記者はゼロにするわけにはいかないのか?。家族にしわ寄せをしてまで、一秒でも早く報道する必要は本当にあるのだろうか?
 
まだほんのちょっとかもしれないけれど、泊り勤務などを見直す機運が高まってきて本当によかった。
 
最近はペッパー君が店番する回る寿司屋も増えた。私の現役時代には間に合わなかったけれど、AIがどんどん進んで、センサーや機械に見張らせたり、自宅から端末を操作してバーチャルアナウンサーにニュース読んでもらったりと言う時代がもう遠くないといいなと心底思う。
 
え?夏休みだって言うのに、ブログを更新しているじゃないかって?え~~~っとぉーこれは趣味ってことにしておいてください (๑˃̵ᴗ˂̵)
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