アクセルを踏み間違えたり、

歩道を暴走したり、

道路脇の店に飛び込んだり、

高速道路を逆走したり。

 

高齢者の事故には枚挙にいとまがない。

 

人間誰しも歳をとる。

だからそのこと自体に罪はもちろんない。

 

私は今年58歳で、

いわゆる世間で言われる年寄りではまだない。

もしかして、自分の体力知力は

若い人に比べても

さほど落ちていないのではないか??と

自負(勘違い?)している。

 

これが「大きな間違い」であること、

自分は「結構ないい年下年寄りであること」は

老いている本人には客観的にはわからないのだ。

 

うちには後期高齢者が

舅89, 姑84、実母82と3人もいる。

 

舅は元国家公務員、87歳まで運転をしていた。

ゴルフにも行っていた。

 

舅は1日に2回、事故を起こした事もある。

ある日、家に帰ったら

サイドミラーがポロリと取れた

見慣れない車が車庫にあった。

台車にしても壊れた車しかなかったの?と

一人で不思議がっていたら、

なんと、舅は田舎を走行中、一度めの事故に遭い、

慌てて親戚の車修理工場で台車を借りたら、

家に戻ってくる途中でまた事故を起こし、

借りた台車もボロボロにしてしまったというのだ。

 

呆れた!!!!!

 

でも年寄りなんだから仕方がないのだ。

 

ところが舅は

実際に車と免許を手放すまで、

この事故の後、3年はかかってしまう。

姑も一人息子(私の夫)も、

舅に遠慮してか?

「おとうさん、もう運転はやめようね」

の一言がどうしても言えないのである。

 

姑は単に自分が車であちこち行きたいからで、

事実上の共犯である。

 

一人息子は単にお父さんをがっかりさせたくない!

という優しい心(?)のために、

「もう歳なんだから、運転は諦めよう」の一言が

死んでも言えないのだ。もぞもぞもぞ。

 

困る。

だから嫁が悪者にならざるを得ない。

 

嫁だって、まさか舅に対して、

「お義父様、そろそろ運転はお辞めになった方が」なんて

口が裂けても言えないのだ。

 

だから悶々とした。

 

事故のニュースをテレビで一緒に見て、

うわぁ〜〜〜大変ですね〜〜〜怖いですね〜〜〜

 

なんて言っても無駄!!

本人は永遠に「自分は不死身」と信じているのだ。

 

テレビのニュースは連日のように、

今日は76歳が逆走、だの

85歳が、境目がわからず歩道を走った、

なんて言ってる。

 

結局、舅が車を諦めたのは87歳と半年である。

たまたま車の車検が来てしまい、

2年車検を延長したとしても、

自分が流石に89歳半まで生きているかどうか?

ちょっと自信がなくなったのか?

 

自分の車を廃車にしたと同時に、舅は運転をやめた。

わたしが舅の車より大きく、しかも赤い、

メルセデス・ベンツに乗っていたからか?

プライドが高い舅も

嫁の車を借りてまで運転する自信がなかったらしい。

 

だから私が「嫁タクシー」を余儀無くされているという

面白くない結果がつきまとっているのも確かだ。

 

それでも!昨今の逆走やら

児童たちの列にお年寄りの車が突っ込んだ、とか、

たくさんの悲惨な事件事故のニュースを耳にするたびに

舅が車をやめてくれて良かったなぁ・・・と

ほのぼの安堵する。

 

運転をやめさせることは

家族にはできない、

というのが私の経験からきた持論だ。

 

老いている本人にとっては、

自分がどれだけ年齢より運動ができず、

自分の頭がどれだけクリアでないか、

ほとんど分かっていないのだ。

 

確かに年齢だけでは

免許の更新を区切れないかもしれない。

本人のプライドもある。

でもだからこそ、法的な「くくり」が必要だと思う。

まぁ75くらいが限界では?

 

家族には

「歳とって判断力もないし、

逆走もしそうだし、

いつ人を轢いてもおかしくないから

免許を返上しようね」

なんて言えるはずがないのだ。

申し訳ないけど、

「警察から止めさせられた」くらいしか、

「自我を守るための口実」はないのでは?

 

ボケた老人は自分がボケているかどうかも

わからないそうだ。

悪者にして申し訳ないけれど、

警察は心を鬼にして、

「ダメなものはダメ!」と言える人であって欲しい。