もう40年以上も前の話だ。

テヘラン(イラン)にある

日本人学校中学部を卒業した私は

当時の中学生とは違う道を選択した。

日本に帰らず、

現地のインターナショナルスクールに

進学することを決めたのだ。

 

ここで出会った恩師のおかげで

今の私がある。

 

尊敬している先生は数人確かにいるが、

私が最も影響を受けたのは

アメリカ系インターナショナルスクールに入ったばかりの頃、

ESL(English as a second language program)

と呼ばれる,

英語を母国語としない子供のための特別教室で

数ヶ月お世話になったDiane Wechesler 先生だ。

ミズ・ウェックスラーと呼んでいた。

 

明るくてお茶目で、LA LA LAND のあの

主人公の女優さんに似ている

とてもチャーミングなアメリカ人女性だった。

コネチカット出身と聞いていた。

決して甘くはないのだけれど、

ベトナム、タイ、韓国、中国、台湾、フィリピンといった

東南アジアだけではなく、

ハンガリー、ベルギー人などもいたっけ。

 

あちこちからやってきた生徒たちを

うまく元気付けて、勉強させていた。

ややもすれば、あの子の英語は

いつまでたってもダメ、とか

欧州出身の子は習得が早いとか、

なんとなく殺伐としてくる。

先生はそんな空気を吹き飛ばして

楽しいクラスを運営していた。

 

私は次第にESLで勉強する時間がへり、

数学やら文学(英語)のクラスに

普通に参加する時間が増えて行った。

しかし日本人の私にとっては、

学校は屈辱的で、滅入る部分があった。

みんなが何を話していても、

話に参加できなかったのだ。

 

4〜5ヶ月ほど経った頃だろうか?

普通クラスで授業を受けることが多くなった私は

ネイティブの生徒たちの英語力にすっかり自信を失い、

インターでこのまま勉強をやっていても

英語なんか一生上手くならないという結論に達した。

英語がペラペラになったら

どんなにいいだろうという夢を

あっけなく、諦めることにしたのだ。

そして親に「帰国したい」と伝えた。

 

親は困惑しながらも

「そう・・・」と言っただけだった。

 

私は「もう英語は諦めて帰国する」と

ウェックスラー先生に報告した。

相談というより、もう決意した後の

お別れの挨拶のつもりだった。

 

先生は悲しそうな顔をしながら一言、

I thought you could do it. と言ったと思う。

「あなたならやれると思ったわ」

と言われたと解釈した。

 

そこから頭の中がぐるぐるし始めて、

「あれ?もしかして、

高校からインターで英語を学ぶ日本人は

少ないのではないかしら?

自分は大きなチャンスを

逃そうとしているのではないかしら?

と迷い始めたのだ。

 

親は帰国の準備をしている気配もないし、

もうちょっと様子を見るかな?

と次第に私は居座ろうという気持ちになっていった。

 

ESLもそろそろ

完全に出してもらえるかな?と思い始めた頃、

ウェックスラー先生が頭を抱えて

授業ができなくなる時間が増えて行った。

「頭が割れるように、とても痛いの」と言って、

「ごめんね、自習してくれる?」と

痛みに耐えながらも、教室にとどまってくれた。

 

先生がその頭痛のために

学校を休み始めたのを知ったのは

一週間か、二週間か、しばらく経った後だった。

 

ある日ESLのリーダー的先生の

Paul Rudy 先生が部屋に来て、

「残念ながらウェックスラー先生の頭の中に、

みなさん、わかりますか?

brain tumor が見つかりました。」

 

 Brain Tumor? なんだろう?

脳に何か?異変が?Tumor って何?

 

そのころは電子辞書なんかない。

携帯もない。

何だ?、何なんだ?

 

 Rudy 先生が続けた。

「頭の中のBrain Tumor は

どうもcancerous です。」と。

 

キャンサロス?キャンサー?

 

高校1年の私にも

その”キャンサロス”という言葉が

キャンサーの形容詞形であることは

なんとなくわかった。

キャンサー、つまり「癌」である。

 

Rudy 先生の一言は

さらに衝撃的だった。

「ウェックスラー先生は

その治療のため、アメリカに帰ります」

 

ええー?

私はもうウェックスラー先生に教われないの?

 

家に帰って慌てて辞書を引いた。

tumor は腫瘍

つまり脳腫瘍ができたということだ。

こっちが倒れそうになった。

 

あんな若い先生が脳腫瘍?

 

日本に帰国なんかしている場合じゃない。

先生が信じてくれた通り、

自分はこのまま学校にとどまって

いつか英語のプロになれるよう

頑張るべきではないか?

 

その後、先生はアメリカで

3年ほど闘病生活を送られたようだ。

私がイスラム革命の勃発のために

1978年12月に帰国を余儀なくされ、

日本に落ち着いてしばらくした頃、

自宅の郵便受けに黒い縁取りがある

綺麗なカードが入っているのを見つけた。

 

ウェックスラー先生の

ご主人からの訃報だった。

 

泣きました。わんわん。

今でもこのウェックスラー先生の話だけはダメ。

まだ泣けてくる。

 

先生は新卒の教師としてESLの私たちを教え、

アメリカに24〜5歳の若さで帰国、

なくなった時にはまだ20代だったと思う。

お墓まいりがしたくて、

あちこちご主人の勤務先を

ウェブで探している。

 

イランとアメリカの関係が良くなれば

もっと当時の卒業生たちとも連絡が取れて

ウェックスラー先生のお墓も

わかるかもしれない。

 

私は来月から青山の文化センターで

「きれいな英語の礼儀作法」という講座を

受け持つことになっている。

 

あの時ギブアップしなかったのは

ひとえに最高の恩師に恵まれたからだ。

私も先生のように、

生徒さんたちを常に信じて励まし、

できるだけ高いレベルに到達できるように

一生懸命支えたいと思っている。

 

あの時やめて帰国していたら、

絶対に今の私はいない。

 

陳腐な言い方だけれど、

NHKに入ったことも、

ニュースキャスターになったことも

英語の講師になることも

天国の先生に、真っ先に報告して、

喜んでもらいたかったと

今、また泣けている。

 

###