後輩の女性記者が過労死していたことを知り、とてもショックを受けています。僭越ながら働く先輩として、後輩女性の皆さんに、ぜひお伝えしておきたいことがあります。FBと同時掲載です。ご了承ください。長文ですので、お暇なときに。

 

いつの頃から「一生働こう」「キャリアウーマンを目指そう」と思い始めたのか、実はあまり記憶にありません。私は北九州市生まれで、父は地元の貧しい家の出身でメーカー勤務でしたし、母は高卒の普通の母親で、いわゆるごく普通の家でした。でも12歳の時(1972年)に父親が当時としては珍しい「海外駐在員」を命じられ、私も合計で6年ほど父について転居したため、18歳半まで海外にいました。帰国子女の「はしり」です。日本の高校を出ていないので、当時は全米のSATというテストの点数などを提出して、なんとか上智大学の外国語学部に入ることが出来ました。アメリカンスクールを出た生徒を受け入れたのは当時は、上智と国際基督教大学だけでした。

 

大学時代はとにかく日本に合わず、困りました。広々とした海外の家、それも途上国で育ったため、まず、電車の混雑がダメでした。「私をあちこち連れ回すから苦労するのよ」と親と一年半口も聞かず、独立する方法を模索しました。大学のテニス同好会をサボり、年齢を秘密にするという条件で(もう時効でしょう)19歳から英会話学校のアルバイトばかりしていました。父はそんな私をみて、「お前は甘い。日本社会には絶対に通用しない」と言い始めました。「パパのコネで◯◯商事の受付でもやらせてもらいなさい」です。親からそう言われて、「私にはなんの才能もなくて、就職出来ないのかな?」となんとなく思っていました。でも3年になった時、就職活動を始めた4年生の先輩が、「マスコミなら男女の差別はないし、3年生でも試験に受かれば大学中退として採用してくれるよ」と言うのです。早く親元から離れたいと思っていた私は3年で就職することに決め、新聞社とテレビ局を回り始めたのです。

 

結果はTV局は一次面接で全敗でした。私は日本と言うところは「可愛い子」がもてはやされる風土があると思っていたので、自己紹介などは可愛い方がいいのかなと思い、「ワタシはァ〜じょうちだいがくのぉ〜オオムラトモコで〜す。頑張りまぁ〜〜す。」みたいなノリでやってしまいました。昔は就職試験の結果は電話で来たので、黒い電話の前で、じ〜〜っと待ちましたよ。何回も。で、結局、何もかかってこな買った・・・

 

それから一年間は自殺もちらっと考えるほど自己嫌悪に陥り、悶々としました。自分は一体、何がやりたいのか?マスコミに受かるのはどうすればいいのか?私はやっぱり社会に求められていないのか?そもそも頭悪いんじゃないの?

 

当時は雇用機会均等法もないので、女性を男性と同じ条件で採用してくれる会社は外資系銀行と(先見性のあった)サントリー、外資系広告会社くらいしかありませんでした。バリバリ働きたければ司法試験か、上級公務員試験かと言う道もありましたが、帰国子女の私には全く論外のお勉強の世界でした。銀行には向いてないし、当時はお酒が全く飲めなかったし、なんとなく、テレビしかないなぁと思っていたので、4年生になっての受験は、本当に必死でした。NHKと民放全局を回るつもりで夏から始めました。最後の3ヶ月は早稲田マスコミセミナーにも通い、一般常識の問題を解いたり、論文の書き方を勉強したり。付け焼き刃ではありましたが、周りはマスコミを受ける同い年の学生ばかりですから、とても刺激になりました。結果的には民放2局とNHKの内定を頂いたところで、打ち止めにしました。

 

人間、一年で、そうそう変化するものではありません。一回めの試験で「完全に全敗」したのに、なぜ2回目には「受けたところから順番に受かった」のでしょうか?

 

それは私が「開き直った」からに違いないと、退職した今も思っています。窮鼠猫を噛む、と言いますが、まさに私は追い詰められたネズミだったのだと思います。私は声を高く上げて挨拶する「女子大生風」を封印し、「採るなら採れば?私を落とすならライバル会社行って、絶対に見返してやる〜〜!!」と根拠もなく、飲んだくれのおっさんのように、開き直っていたのでしょう。自分は腰掛けのつもりはない、ちゃんと記者になって、結婚しなくてもいいからニュースを伝える仕事がしたい、と面接でもはっきり言いました。でもNHKのやっとこさの内定後に健康診断を受けたら、半年の間に6キロも体重が減っていました。自分では全く気づいていませんでしたけど。知らない間に苦労していたようです。

 

あとで人事に聞いたら、「一人だけ、なんか気迫があった」と笑われました。とても変わっていたのだそうです。ギラギラしていたのかも(笑)。

 

そして私は名古屋放送局の記者としてのスタートを切りました。初めての一人暮らし。東山動物園近くの何にもないアパートの裸電球の下で、泣きましたよ。なんで私は何の縁もゆかりもないここにいるの?

 

ところが幸い、仕事を始めたら面白くて、50歳を超えるまで、辞めようと言う気持ちにはなりませんでした。単細胞だったのかもしれません。

 

先日、後輩記者の佐戸未和さんが31歳と言う若さで、過労死されたことを知りました。携帯を握ったまま亡くなっていたそうですが、おそらく、忙しいけれど、プライドを持って、仕事をしていたに違いありません。そして自分に厳しいストイックな人だったんでしょうね。サボることを自分に許さなかったのでしょうか。マスコミ、特に報道は、伝えるべきことはエンドレスで、夕方5時になったら終わる、と言うような性質の仕事ではないのですよね。例えば、未和さんのように都庁担当だったとすると、もちろん知事が登庁していれば、記者も登庁しているし、そのほか自分の管内である都内で起きることはちゃんとウォッチしておかなければなりません。ちょっと休むからその間、小池知事をお願いね〜〜とはなかなか行きません。特に選挙期間は大変な忙しさになります。全国で連絡を取り合って取材する今回のような衆院選はなおさらです。未和さんが体調不良に気づいていたのか?気づいていたけれど病院に行くような心と体の余裕がなかったのか?とにかく彼女は仕事に没頭するあまり、重篤な過労状態に陥っていたに違いありません。残念です。

 

「天職」と言う言葉があります。記者の仕事に限らず、自分が自分にぴったりだと感じられる仕事のことを「天職」と言うのです。神が与えてくれた仕事です。私もテレビを通してニュースを伝える自分の仕事をずっと天職だと思ってきましたし、今もそうだと思っているので、業界から離れないように、まだ仕事をしています。好きとか嫌いとかより、もう自分の人生なんですよね、仕事って。この「天職」に巡り会うのはとっても幸せなことだと思うのです。が、一歩間違うと、ワーコホリックになってしまいますね。

 

もちろんワーコホリックになったとしても、楽しくて、健康で、全く問題がないのなら、他人の私がどうこう言う必要はありません。でも、仕事は死んでまで頑張る必要もありません。仕事は自分がハッピーなら続ければいい。ハッピーでなければ続けなくて良いのです。(これは働く若い女性の話で、家族持ちとかはちょっと残念ながら違うかもですが)

 

ではしんどい、辞めたい、と思った時、どうすればいいのか?先ずは「このままじゃおかしくなる・休ませろ〜〜」と上司に叫びましょう。そして休みをもらいましょう。あまり我慢して会社に行っても、いずれ破綻する恐れがあるからです。上司が「君ぃ、休んじゃ困るね」なんて言う人なら、じゃぁ〜先輩お願いします、と押し付けていいんです。上司はあなたより其の分、給料をもらっていますし、他の部下に分散することもできるはずです。それでも制度的にも物理的にも長期休む事ができない時が確かにあります。自分が抜けることで迷惑をかける場合です。さぁ〜どうしましょ。

 

難しいのは、大きな会社を辞めると、二度とその会社にお世話になれないことです。だから辞めたくなったら、深呼吸して、もう一度冷静に考えてみる必要はあるかもしれません。やっぱり一旦辞めると、再就職した会社で賃金が下がる場合が多いですから。

 

でも基本、自分が抜けることで迷惑を一時的にかけたにしろ、ずっとかけることはありません。会社はあなたがいなくても大丈夫。潰れません。世の中、そんなもんです。まず、自分だけが会社を支えているかのような錯覚はやめましょう。

 

ここまで考えると、わかりますね。もうどうしようもない場合は「辞める」に尽きます。電通のまつりさんは、あまりの忙しさに疲れて自らの命を経ってしまいましたが、何もそこまで責任を背負いこむ必要はなくて、「失踪」しちゃっても首になるだけで、大した問題にはなりません。犯罪じゃないし。だから辞めるなり失踪するなり、しましょう。自分を守る事が大事です。

 

私は52歳のとき、管理職でありながら突然やめました。辞めると上司に報告したのは7月下旬か?夏休み直前くらいだったと思います。そして10月からしっかり有給休暇をいただいて、2012年12月12日でやめています。単なる語呂合わせです(笑)。この日を自分ではアメリカの独立記念日と同じく The Independence Day と呼んでいます。自分で独り立ちをすることにしたからです。もちろん、辞めたくはなかったですよ。胃がんサバイバーの夫の海外転勤が続き、別居が長くなりすぎたことと、せっかくの海外生活を小学生の娘に経験させたかったと言うのが理由です。でもあまり理解のある上司ではなく、どうしても1年たりとも、休職を認めないと言うのです。その人はそもそも私に小さな娘がいたのに、泊まり勤務を絶対に免除しないような上司でした。母性保護の観点からも児童福祉の観点からもアウトな対応ではありました。でも確かに私が泊まらないと、他の人のローテーションがきつくなりますので道義的責任を感じ、泊まり勤務を最低1ヶ月に1回は、やっていました。夜中に何回も娘がワンワン泣いて電話をしてきたことは生涯忘れません。内心、あなた(部長)が泊ればいいじゃん!と思っていました。でもどうせ仕事できないし(笑)、デスク業務は任せられないし。仕方なく私が泊まり(貫徹の当直勤務です)ました。もちろん、時短もとりませんでした。管理職だからその代わりお給料は多かったので、シッターさんとシルバーさんをフルに活用しました。

 

辞めたくないけれど、と相談した際も私の上司は「帰っておいで」とも言わなかったので、あぁ〜もう全く面倒見てくれるつもりはないのだな、と思いました。おまけに労務は電話先で「有給休暇を取得しないで今すぐ辞めても構いません」と冷たく言いました。ちょっとNHKらしくなくて、驚きました。でも捨てる神あれば拾う神ありとは本当で、帰国してからすぐに昔の上司(この人は立派な部長だった別の人)が声をかけてくださって、今は子会社と業務委託契約をさせていただいています。それに元NHKと言うことで、お仕事を外部からいただいたり、細々とですが、仕事を続けています。

 

辞めて後悔がないとは言いませんが、すっきりしました。どうせ57歳で定年だし。あと5年、必死で管理職業務を続けるか、家族と海外で楽しく過ごすか?私は家族を取ったわけです。もちろん、収入は7分の1になりましたよ。やっぱりサラリーマンはすごいです。でも気持ちとしては「お給料がなくなった」こと以外、全く後悔してません。そしてて私はすでに定年を迎えました。同期が次々にNHKを退職して子会社に移っています。52でやめてもどーってことなかったのです。

 

私の場合はラッキーにも大手で、子会社もあったりして、「元」と言う肩書きを使えているので恵まれています。ですが「自分から辞める」ことは絶対におすすめしません。最後の手段です。

 

会社の正式な制度がなければ、「心の病」、あるいは「親の介護」を理由にして、休むこともできるかもしれません。信頼できる周りの人に相談して、何か手段はないか、探してください。会社によって職務規定が違うので、ケースバイケースですが、最近は一度やめても「再雇用制度」を設けているところもあります。辞めたくて辞めたくてたまらないけれど、今後の生活が困るし、いずれ戻りたいなら、ポストをキープしなければなりません。その方が休んでいる間、精神的に追い詰められないで済みます。なので、診断書をもらうとか、ちょっとずるいと思っても、自分を守る手段としてなんとか「辞める」のではなく「休む」と言う形にしてもらえるように、頑張って見ましょう。

 

それでもあなたのことを惜しいと思ってくれなかったり、あなたの代わりくらい、いつでもいますよ、と言うような会社なら、こちらからもっと良いライバル会社に再就職してからゆっくりとリベンジすれば良いのですww。

 

仕事は続けてなんぼ、だと思います。続けて、専門的な知識やスキルを身につけて、その仕事に精通しないと、結局は一生、下働きで終わってしまいます。とにかく続けて、なるべく長く続けて、休みたくなった時も、辞めたくなった時も引き止めてもらえるような社員になっておけば、いざという時に安心でもあります。

 

それに引き止められてもらえなかったら、それはそれで切り替えて、また別の会社で頑張りましょう。とにかく健康を損なうような働き方だけは絶対にやめてください。一人で悩まないで、どんどん周囲の人に相談しましょうね。せっかくの「天職」。大事にしてください。でも一番大事なのは貴方の健康です。

 

若くて優秀な女性たちが亡くなってしまうことほど残念なことはありません。まつりさん、みわさんのご冥福をお祈りします。そして後に続く女性たちがひるむことなく、果敢にキャリアに挑戦してくれることを切に願っています。

 

###